いたずらな花蜜 ~妖精がつなぐ未発達な恋心~ 《 第一章 02

「ちょっ、アリシア!」
 くるりときびすを返し、アリシアは一目散にその場をあとにした。まさに言い逃げだ。
(こんな言い方はずるいし、フィースには迷惑でしかないってわかってるけど――)
 誰にも邪魔されずふたりきりで話をして、明日の休みに出かける約束をなんとしても取り付けたい。
(来て、くれるかな……)
 頬を赤く染めて、うつむき加減に淑やかに歩くさまは恋する乙女そのものだが、彼女の恋心は未発達で、自覚はない。
「……――ひ?め?さ?ま?ッ!」
 アリシアは廊下の角でギクリとして足を止めた。
 「げっ」と言いながら声がしたほうをおそるおそる振り返る。
「いったいどちらにいらしたんですか」
 彼の言葉は疑問形ではなかった。アリシアの行動に対して確信があるのだろう。
 第一王女のお目付役である侍従のルアンドはツカツカとアリシアに近づきながら低い声音で言う。
「またフィース殿のところですか。いいですか? あなたはいずれ然るべき相手とご結婚なさるのですよ」
 もう幾度となく言われた言葉だ。うんざりする。
「でもお母様は、誰とだっていいとおっしゃっているわ。それに私、まだ18だし。結婚とか、ぜんぜん興味ない。このシュバルツ国の結婚適齢期は20歳でしょう? まだまだ先よ」
 アリシアはぷいっとそっぽを向いた。このやりとりも、もう何度も繰り返してきた。本当に本当にウンザリする。
 アリシアはルアンドの、ぴっちりとうしろへ撫でつけられた茶色い髪をうらめしそうに見上げた。夕方だというのに少しも髪型が乱れていないのはなぜだろう。彼はまだ30歳前後だったと思うが、神経質そうな髪型のせいで老けて見える。
「――ですが、陛下はきっとお許しになりませんよ。ですから好き勝手な行動をなさるのは控えていただきたい」
「いったいなにが問題だっていうの? 幼なじみに会いに行ってるだけじゃない。それに、お父様は誰との結婚だって反対するに決まってるわ。一生、誰とも結婚しなくてもいいとおっしゃっていたもの」
 アリシアが憤然と言い放った。いっぽうのルアンドは、「はぁぁ」と盛大にため息をついて頭をかかえたのだった。


 フィースに、部屋に来るようにと一方的に頼み込んだ日の夜、アリシアはネグリジェの上にガウンを羽織っただけの恰好で自室のソファに座っていた。
 かたわらにはティーセットを乗せたワゴンを準備している。
(昔はよく本を読んでもらっていたっけ……)
 アリシアが手にしているのは『ノマーク神話全集 その2』だ。
 夕刻、閉架書庫で見つけた『聖地』というのは、この本に描かれている場所のことだ。
 ノマーク神話はシュバルツ国の実在の場所をもとに作られている。アリシアはこの物語の舞台に赴くのが大好きだった。
 きっかけはフィースだった。アリシアがまだあまり文字が読めない時分に読み聞かせをしてもらい、さらには物語に登場する場所が実在すると知り、ふたりで城を抜け出して聖地を巡ったものだ。
 幼少のころは、抜け出すといっても城の近くばかりだったが、いまならもっと遠くまでふたりで行くことができる。物理的には、できる。あとはフィースがその気にさえなってくれれば――。
 コン、コンッというひかえめなノック音でアリシアはパッと顔を上げた。
 あわてて立ち上がり、訪問者を確かめもせずに扉を開けた。
「――アリシア。そう簡単に寝室の扉を開けるのはよくないと、いつも言ってるだろ」
「フィース! 来てくれたのね、ありがとう。さあ、入って」
「ああ……」
 フィースは『やれやれ』といったふうに眉尻を下げたあと、扉の外に控えていた見張りの騎士団員に目配せをしてアリシアの寝室に入った。
「さあ、座って。すぐにお茶を淹れるから。あ、スコーンもあるわよ。あなたの好きなミックスベリージャムも」
「いや、長居をするつもりはないから。……それで、用件は?」
「……お茶の一杯くらい、いいじゃない」
 アリシアは唇を一文字に引き結んでティーポットに手をかける。茶葉やティーカップは侍女が準備してくれていたので、お湯を注ぐだけの状態だった。
 オレンジティーをふたつと、それからいくつかのスコーンをソファの前のローテーブルに並べる。フィースは扉の前に突っ立ったままだ。
「……フィース」
 アリシアはクイッ、と彼の上着の袖を引いた。フィースはまだ団服のままだ。帯剣もしている。きっとまだ夕食もとっていないのだろう。あまり引き留めては悪いとわかってはいる。
「手短に済ませるから……お願い」
 クイッ、クイッと何度も白い袖を引くと、フィースはどうしてかバツが悪そうな顔をした。いかにもしぶしぶと、重い足取りでソファに腰をおろす。
(……どうして端っこに座るんだろう)
 ティーカップはソファの中央にふたつ並べて置いた。それなのに、フィースはソファの端に腰掛けてしまった。
 アリシアはティーカップとスコーンをテーブルの端に寄せ、自身もソファの端――フィースの真横に座った。彼はこちらを見ようとはせず、無言でティーカップを手にとって一口だけすすった。
 アリシアはスコーンにジャムを塗りつけながら彼のようすを横目でうかがう。
「え、と……お腹、空いてるよね? はい、あーん」
「――!?」
「ほら、口を開けて」
 ずいっ、とスコーンを彼の口の前まで差し出す――というか、押し付けた。
 ためらいがちにフィースの口がひらき、スコーンをひとかじりする。
「おいしい?」
「……ん」
 フィースはモグモグと口を動かしている。
「どんどん食べて」
 彼が素直にスコーンを食べているのが嬉しい。アリシアはニマニマとほほえむ。
「………」
 フィースの翡翠色の目がわずかに細くなった。アリシアが手にしているスコーンはもう残りわずかだ。おそらく次が、最後の一口。
「……っ!?」
 フィースはアリシアの手首をつかんで大きく口を開けた。彼女の指ごとスコーンの欠片を口に含み、華奢な指先をペロリと舌で舐め上げる。
「……っぁ」
 アリシアが手を引っ込める。
 たしか前にもこういうことがあった。もうずいぶんと昔のことだ。

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