フィースはアリシアの体を掛け布団で自分の目から覆い隠した。
物音を立てないよう配慮しながら扉を開け、部屋の外へ出る。
扉の前に立っていた見張りの騎士団員と、すぐに目が合った。
「すまないが俺がここにいたことはくれぐれも――」
「はい、他言無用にいたします」
フィースよりもさらに年若い、入団してまだ一年ほどしか経っていない新米の騎士団員は意味ありげにニヤニヤと口もとをほころばせている。
「……言っておくが、やましいことはなにもしていないからな」
額や頬にキスをした程度は『やましく』ないだろう。そんなものは挨拶と同じだ。――自分に都合のいい解釈かもしれないが。
「はいっ、承知しております」
「……それなら、いいが」
「お疲れ様でした!」
敬礼してきた新米団員に、同じように礼を返してフィースはその場をあとにした。
(明日は久しぶりにアリシアと……)
なかば強引に出掛ける約束をさせられたものの、本心ではやはり嬉しかった。
(……自制心、自制心)
フィースは心のなかで自分自身を戒め、遅い夕食をとるべく極めて軽い足取りで食堂へ向かった。
フィースと出掛ける約束をした日の朝はあいにくの曇天だった。
曇り空ではあるが、いまにも雨が降り出しそう、というほどの暗雲ではない。じゅうぶん、出掛けることができそうな空模様だ。
早朝に目が覚めたアリシアはいそいそと手早く身支度をした。
(ルアンドに見つかる前に城を抜け出さなくちゃ)
――とはいえ、忽然と姿を消すのはあんまりなので、置手紙を残していく。
(キャサリンのお屋敷へ遊びに行きます――っと)
羊皮紙に走り書きをして、円卓の上に置いた。ほかにはなにも載っていないので、すぐに気がついてもらえるだろう。
部屋の扉をそっと押し開け、扉の前に立っていた騎士団員に声をかける。
「おはよう。いつもご苦労様」
「おはようございます。……どちらへ行かれるのですか?」
「キャサリンのお屋敷よ。ルアンドには言ってあるから、安心して。それにしても、一晩中こんなところに立たされて疲れているでしょう? さあ、早く帰ってゆっくり休んで」
「はあ、ですが……。あっ、姫様! お待ちください!」
アリシアはヒラヒラと手を振って駆け出す。どう考えても怪しまれているが、今日の見張りが新人の騎士団員だったのはラッキーだ。
(……でも、あとでフィースに言っておかなくちゃ。彼を責めないでって)
見張りをしていた男性の上司は、城や王族の警護を担う王立騎士団の副団長であるフィースだ。最たる上司は団長だが、彼はアリシアの行動に対してとても寛容なので心配ないだろう。
アリシアはなるべく見張りが少ない通路や出入り口を通って城をくだっていった。勤務を終えた侍女を装い、難なく城を抜け外に出る。こういうときのために、仲の良い侍女から私服を譲り受けていた。
(――ああ、すがすがしい)
早朝特有のつめたい空気を思いきり肺のなかに取り入れたあとでいっきに丘をくだる。
息が弾む。しかし、気持ちがよい。アリシアも、フィースと同じで体を動かすのが好きだった。
はあ、はあっと息を切らせて到着したのは、フィースの実家であるアッカーソン侯爵邸だ。
裏門から厩舎をのぞく。
「――フィース! おはようっ!」
門の鉄格子ごしに呼びかけた。フィースは厩舎で馬丁と一緒に馬の準備をしていた。こちらを振り返った彼の顔は驚きに満ちていた。
「なっ、アリシア……! どうして……。まさか、ここまでひとりで来たのか?」
あわてたようすでフィースは裏門を開け、アリシアを敷地のなかへ招き入れる。
「うんっ! フィースに早く会いたくて」
「………」
ふいっ、と視線を逸らされた。
アリシアは肩をすくめる。
「……ごめんなさい。来るのが……あまりにも早すぎたわね」
しゅんとしてうつむく。
「あ、いや……。迎えに行くと言わなかった俺が悪い。……ところで、ルアンドにはちゃんと言ってきたのか?」
「う、うん。もちろん」
ああ、誰にでも嘘ばかりついている。
(けど……。フィースと一緒にいたいんだもん)
おずおずと彼を見上げる。今日のフィースは非番なので、団服ではなく私服だった。青い上着が見た目に涼やかだ。なかのドレスシャツは襟もとが大きく開いている。暑がりなフィースの私服はいつもこんな感じだ。
「……アリシア」
彼もまた、アリシアを見つめていた。
「少し、汗をかいてる」
フィースの腕が一直線に伸びてくる。首すじに張り付いていた髪の毛を、そっとつかまれる。
「ん……。くすぐったい」
アリシアが目を細めて首をかしげると、フィースはパッと彼女の髪の毛を手放して腕を引っ込めた。
「――い、行こうか。馬の準備はできてる」
フィースはクルリとうしろを向いて厩舎へ歩いていった。やけに早足だ。
(フィースも、私と出掛けるのを楽しみにしてくれてるのかな)
はやる気持ちが足取りに表れているのだろうかと、いいように解釈してアリシアは顔をほころばせた。
それからふたりは朝市で果物を物色し、パン屋でサンドイッチを調達して目的地へと馬で発った。
アリシアはフィースが操る馬に横乗りして揺られながら空を見上げた。あいかわらずの曇り空だ。
「寒くはない?」
フィースは前を向いたままアリシアに尋ねた。
「うん、平気。楽しいっ」
「楽しい……か? まだまだ『秘密の花園』には程遠いんだが」
「フィースが一緒だったら、どこへ行ってもなにをしても楽しいよ」
「……あ、そう」
彼の頬が赤く染まっていることにアリシアは気づかない。
「――次はどっちの道?」
前 へ
目 次
次 へ
物音を立てないよう配慮しながら扉を開け、部屋の外へ出る。
扉の前に立っていた見張りの騎士団員と、すぐに目が合った。
「すまないが俺がここにいたことはくれぐれも――」
「はい、他言無用にいたします」
フィースよりもさらに年若い、入団してまだ一年ほどしか経っていない新米の騎士団員は意味ありげにニヤニヤと口もとをほころばせている。
「……言っておくが、やましいことはなにもしていないからな」
額や頬にキスをした程度は『やましく』ないだろう。そんなものは挨拶と同じだ。――自分に都合のいい解釈かもしれないが。
「はいっ、承知しております」
「……それなら、いいが」
「お疲れ様でした!」
敬礼してきた新米団員に、同じように礼を返してフィースはその場をあとにした。
(明日は久しぶりにアリシアと……)
なかば強引に出掛ける約束をさせられたものの、本心ではやはり嬉しかった。
(……自制心、自制心)
フィースは心のなかで自分自身を戒め、遅い夕食をとるべく極めて軽い足取りで食堂へ向かった。
フィースと出掛ける約束をした日の朝はあいにくの曇天だった。
曇り空ではあるが、いまにも雨が降り出しそう、というほどの暗雲ではない。じゅうぶん、出掛けることができそうな空模様だ。
早朝に目が覚めたアリシアはいそいそと手早く身支度をした。
(ルアンドに見つかる前に城を抜け出さなくちゃ)
――とはいえ、忽然と姿を消すのはあんまりなので、置手紙を残していく。
(キャサリンのお屋敷へ遊びに行きます――っと)
羊皮紙に走り書きをして、円卓の上に置いた。ほかにはなにも載っていないので、すぐに気がついてもらえるだろう。
部屋の扉をそっと押し開け、扉の前に立っていた騎士団員に声をかける。
「おはよう。いつもご苦労様」
「おはようございます。……どちらへ行かれるのですか?」
「キャサリンのお屋敷よ。ルアンドには言ってあるから、安心して。それにしても、一晩中こんなところに立たされて疲れているでしょう? さあ、早く帰ってゆっくり休んで」
「はあ、ですが……。あっ、姫様! お待ちください!」
アリシアはヒラヒラと手を振って駆け出す。どう考えても怪しまれているが、今日の見張りが新人の騎士団員だったのはラッキーだ。
(……でも、あとでフィースに言っておかなくちゃ。彼を責めないでって)
見張りをしていた男性の上司は、城や王族の警護を担う王立騎士団の副団長であるフィースだ。最たる上司は団長だが、彼はアリシアの行動に対してとても寛容なので心配ないだろう。
アリシアはなるべく見張りが少ない通路や出入り口を通って城をくだっていった。勤務を終えた侍女を装い、難なく城を抜け外に出る。こういうときのために、仲の良い侍女から私服を譲り受けていた。
(――ああ、すがすがしい)
早朝特有のつめたい空気を思いきり肺のなかに取り入れたあとでいっきに丘をくだる。
息が弾む。しかし、気持ちがよい。アリシアも、フィースと同じで体を動かすのが好きだった。
はあ、はあっと息を切らせて到着したのは、フィースの実家であるアッカーソン侯爵邸だ。
裏門から厩舎をのぞく。
「――フィース! おはようっ!」
門の鉄格子ごしに呼びかけた。フィースは厩舎で馬丁と一緒に馬の準備をしていた。こちらを振り返った彼の顔は驚きに満ちていた。
「なっ、アリシア……! どうして……。まさか、ここまでひとりで来たのか?」
あわてたようすでフィースは裏門を開け、アリシアを敷地のなかへ招き入れる。
「うんっ! フィースに早く会いたくて」
「………」
ふいっ、と視線を逸らされた。
アリシアは肩をすくめる。
「……ごめんなさい。来るのが……あまりにも早すぎたわね」
しゅんとしてうつむく。
「あ、いや……。迎えに行くと言わなかった俺が悪い。……ところで、ルアンドにはちゃんと言ってきたのか?」
「う、うん。もちろん」
ああ、誰にでも嘘ばかりついている。
(けど……。フィースと一緒にいたいんだもん)
おずおずと彼を見上げる。今日のフィースは非番なので、団服ではなく私服だった。青い上着が見た目に涼やかだ。なかのドレスシャツは襟もとが大きく開いている。暑がりなフィースの私服はいつもこんな感じだ。
「……アリシア」
彼もまた、アリシアを見つめていた。
「少し、汗をかいてる」
フィースの腕が一直線に伸びてくる。首すじに張り付いていた髪の毛を、そっとつかまれる。
「ん……。くすぐったい」
アリシアが目を細めて首をかしげると、フィースはパッと彼女の髪の毛を手放して腕を引っ込めた。
「――い、行こうか。馬の準備はできてる」
フィースはクルリとうしろを向いて厩舎へ歩いていった。やけに早足だ。
(フィースも、私と出掛けるのを楽しみにしてくれてるのかな)
はやる気持ちが足取りに表れているのだろうかと、いいように解釈してアリシアは顔をほころばせた。
それからふたりは朝市で果物を物色し、パン屋でサンドイッチを調達して目的地へと馬で発った。
アリシアはフィースが操る馬に横乗りして揺られながら空を見上げた。あいかわらずの曇り空だ。
「寒くはない?」
フィースは前を向いたままアリシアに尋ねた。
「うん、平気。楽しいっ」
「楽しい……か? まだまだ『秘密の花園』には程遠いんだが」
「フィースが一緒だったら、どこへ行ってもなにをしても楽しいよ」
「……あ、そう」
彼の頬が赤く染まっていることにアリシアは気づかない。
「――次はどっちの道?」