アリシアの言葉でフィースも空に目を向ける。
「そうだな……。いまにも降り出してきそうだ。そろそろ帰ろう」
「うん……」
暗雲に覆われていく空から視線を逸らし、アリシアはもと来た道へ向かって歩き出したフィースの背を追った。
「――……まいったな」
馬にまたがったままフィースは苦虫を噛みつぶしたような表情を浮かべていた。アリシアは彼のうしろから頭だけをななめに動かして前方をのぞく。
「あっ、橋が……」
王都へと戻るための橋が、なくなっていた。
川の水は向こう岸から渡ってきたときよりも明らかに増えている。
流れは極めて急だ。橋はもともとかなり老朽化していたようだから、水に押し流されてしまったのだろう。
「……っ、ごめんなさい。私が安易なことを言ったせいで」
アリシアの顔が青ざめる。
「いや、きみのせいじゃない。……さて、それにしてもどうするべきか」
フィースは「うーん」と小さくうなりながら考えあぐねた。
「迂回するしかないんだが――」
言いながら空を見上げる。アリシアも彼にならって上を見た。すると、ポツリとつめたい雨粒が頬を打った。
「……っ、やっぱり降ってきた。すぐにでも本降りになりそうだ」
手綱を引き、フィースは馬を180度回転させて町へと駆けた。
川向こうへ渡れなくなり、雨も降り出したことで町に足止めされてしまったのはアリシアたちだけではなかった。
小さな町の数軒しかない宿屋はすぐに急な利用客であふれ、アリシアとフィースは空き部屋のある宿を探してしばし訪ね歩いた。
「――アリシア、ごめん。その……こんなところで……ええと」
「えっ?」
シャワーを浴び終えたアリシアは宿屋に備え付けてあったバスローブに袖を通して窓ぎわに立っていた。
浴室から出てきたばかりの、同じくバスローブを着たフィースを振り返る。
「なにが? すごくいいところじゃない。ベッドは大きいし、着替えまで置いてあるし。一部屋だけでも空きがあって、本当によかった」
この部屋の壁やカーペットは派手な原色ばかりなので、少々目に刺激がありすぎるが、雨のなかを迂回して城へ戻るよりはここで天候の回復を待つほうがよいに決まっている。
「あ、いや……うん。まあ、きみがいいのなら」
フィースは視線をさまよわせながら歯切れ悪くそう言って、ソファに腰をおろした。
アリシアはふたたび窓の外を見やる。
(まだまだ止みそうにないわね……)
雨はザァァッ、と豪快に降りしきっている。この宿の周辺には民家が少ない。外は真っ暗で、雨が降っていること以外はほとんどなにもわからない。
「――もう夜も遅いし、雨も止みそうにないし……今日は寝ましょう」
アリシアはシャッ、と真っ赤なカーテンを閉めてベッドへと歩き、そのまま布団のなかに潜り込んだ。
「……俺はソファで寝るよ」
布団の向こうから聞こえてきた言葉に驚き、ガバッと身を起こす。
「なに言ってるの!? そんなところで寝たら風邪を引くわ。ほら、こっちに来て」
アリシアはぴょんっ、と大きなベッドから飛び降りてソファに向かった。難しい顔をしている幼なじみの騎士の腕を引っ張り、ベッドへ連れ込む。
「アリシア……。俺、本当に――」
「……そんなに、私と一緒に寝るのがいや?」
「……っ!」
フィースをベッド端に座らせて、真正面から顔をのぞき込む。
「以前……あなたを蹴り落としてしまったこと、まだ根に持ってるの?」
「……え」
年上の幼なじみがポカンと口を開けた。アリシアは憤然と話し続ける。
「私、あのころよりもかなり寝相がよくなってると思うの! 少なくとも、私自身はベッドから落ちなくなったわ!」
「あー……。そういえば……そんなこともあったっけ」
ポリポリと指で頬をかきながらフィースは横目で窓のほうを眺めている。
昔はよく彼にベッドで読み聞かせをしてもらっていた。そしてそのまま眠りに就いたものだ。
ただ、熟睡するアリシアとは対照的にフィースは決まって寝不足になっていた。アリシアの寝相が悪すぎるせいで。
「――私に蹴られるのがいやで、一緒のベッドで寝たくないんじゃないの?」
「……ん、ちょっと違うよ」
「じゃあ、なぜ?」
フィースの視線が、窓からこちらへゆっくりと戻ってくる。鮮やかな翡翠色の双眸に、じいっと見つめられる。
「……本当に、わからない?」
完全には乾ききっていない髪の毛を、ひとふさだけつまかれた。
「わからな――」
突然、ドクンッと異様な動悸がした。視界が――フィースが二重にかすんで見える。
「……っ、ぅ」
アリシアは胸を押さえてその場にうずくまる。
「アリシア?」
頭上からフィースの心配そうな声が降ってきた。
(な、なに? 胸が、苦しい……っ。どきどき、する)
胸もとを自分自身の手でわしづかみにして、はあはあと肩で息をする。
フィースに何度も名前を呼ばれた。
(……おさまった――?)
心臓の高鳴りはすぐに引いた。
アリシアの目の前には筋肉質な胸板。バスローブの隙間から見えている。
今度は、あらぬところがドクンと大きく波を打つ。
「アリシア? 大丈夫か? 医者を――」
「わ、たし……へんだわ」
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「そうだな……。いまにも降り出してきそうだ。そろそろ帰ろう」
「うん……」
暗雲に覆われていく空から視線を逸らし、アリシアはもと来た道へ向かって歩き出したフィースの背を追った。
「――……まいったな」
馬にまたがったままフィースは苦虫を噛みつぶしたような表情を浮かべていた。アリシアは彼のうしろから頭だけをななめに動かして前方をのぞく。
「あっ、橋が……」
王都へと戻るための橋が、なくなっていた。
川の水は向こう岸から渡ってきたときよりも明らかに増えている。
流れは極めて急だ。橋はもともとかなり老朽化していたようだから、水に押し流されてしまったのだろう。
「……っ、ごめんなさい。私が安易なことを言ったせいで」
アリシアの顔が青ざめる。
「いや、きみのせいじゃない。……さて、それにしてもどうするべきか」
フィースは「うーん」と小さくうなりながら考えあぐねた。
「迂回するしかないんだが――」
言いながら空を見上げる。アリシアも彼にならって上を見た。すると、ポツリとつめたい雨粒が頬を打った。
「……っ、やっぱり降ってきた。すぐにでも本降りになりそうだ」
手綱を引き、フィースは馬を180度回転させて町へと駆けた。
川向こうへ渡れなくなり、雨も降り出したことで町に足止めされてしまったのはアリシアたちだけではなかった。
小さな町の数軒しかない宿屋はすぐに急な利用客であふれ、アリシアとフィースは空き部屋のある宿を探してしばし訪ね歩いた。
「――アリシア、ごめん。その……こんなところで……ええと」
「えっ?」
シャワーを浴び終えたアリシアは宿屋に備え付けてあったバスローブに袖を通して窓ぎわに立っていた。
浴室から出てきたばかりの、同じくバスローブを着たフィースを振り返る。
「なにが? すごくいいところじゃない。ベッドは大きいし、着替えまで置いてあるし。一部屋だけでも空きがあって、本当によかった」
この部屋の壁やカーペットは派手な原色ばかりなので、少々目に刺激がありすぎるが、雨のなかを迂回して城へ戻るよりはここで天候の回復を待つほうがよいに決まっている。
「あ、いや……うん。まあ、きみがいいのなら」
フィースは視線をさまよわせながら歯切れ悪くそう言って、ソファに腰をおろした。
アリシアはふたたび窓の外を見やる。
(まだまだ止みそうにないわね……)
雨はザァァッ、と豪快に降りしきっている。この宿の周辺には民家が少ない。外は真っ暗で、雨が降っていること以外はほとんどなにもわからない。
「――もう夜も遅いし、雨も止みそうにないし……今日は寝ましょう」
アリシアはシャッ、と真っ赤なカーテンを閉めてベッドへと歩き、そのまま布団のなかに潜り込んだ。
「……俺はソファで寝るよ」
布団の向こうから聞こえてきた言葉に驚き、ガバッと身を起こす。
「なに言ってるの!? そんなところで寝たら風邪を引くわ。ほら、こっちに来て」
アリシアはぴょんっ、と大きなベッドから飛び降りてソファに向かった。難しい顔をしている幼なじみの騎士の腕を引っ張り、ベッドへ連れ込む。
「アリシア……。俺、本当に――」
「……そんなに、私と一緒に寝るのがいや?」
「……っ!」
フィースをベッド端に座らせて、真正面から顔をのぞき込む。
「以前……あなたを蹴り落としてしまったこと、まだ根に持ってるの?」
「……え」
年上の幼なじみがポカンと口を開けた。アリシアは憤然と話し続ける。
「私、あのころよりもかなり寝相がよくなってると思うの! 少なくとも、私自身はベッドから落ちなくなったわ!」
「あー……。そういえば……そんなこともあったっけ」
ポリポリと指で頬をかきながらフィースは横目で窓のほうを眺めている。
昔はよく彼にベッドで読み聞かせをしてもらっていた。そしてそのまま眠りに就いたものだ。
ただ、熟睡するアリシアとは対照的にフィースは決まって寝不足になっていた。アリシアの寝相が悪すぎるせいで。
「――私に蹴られるのがいやで、一緒のベッドで寝たくないんじゃないの?」
「……ん、ちょっと違うよ」
「じゃあ、なぜ?」
フィースの視線が、窓からこちらへゆっくりと戻ってくる。鮮やかな翡翠色の双眸に、じいっと見つめられる。
「……本当に、わからない?」
完全には乾ききっていない髪の毛を、ひとふさだけつまかれた。
「わからな――」
突然、ドクンッと異様な動悸がした。視界が――フィースが二重にかすんで見える。
「……っ、ぅ」
アリシアは胸を押さえてその場にうずくまる。
「アリシア?」
頭上からフィースの心配そうな声が降ってきた。
(な、なに? 胸が、苦しい……っ。どきどき、する)
胸もとを自分自身の手でわしづかみにして、はあはあと肩で息をする。
フィースに何度も名前を呼ばれた。
(……おさまった――?)
心臓の高鳴りはすぐに引いた。
アリシアの目の前には筋肉質な胸板。バスローブの隙間から見えている。
今度は、あらぬところがドクンと大きく波を打つ。
「アリシア? 大丈夫か? 医者を――」
「わ、たし……へんだわ」