花の街ステラルでの一件からおよそ一週間後のある日、アリシアはルアンドから渡された『王族のたしなみ』なる本を私室で読んでいた。
ルアンドはアリシアの専属侍従だが、彼女の世話を焼くことばかりが彼の仕事ではない。だからいまはひとりで――いや、アドニスと一緒に、極めて学習的な読書をしている。
アドニスはアリシアの肩のあたりに座り、分厚い本を彼女と一緒にのぞき込んだ。
『つまらなそうだね、アリシア』
「うん……。この本、なんのユーモアもひねりもなくて退屈だわ」
フィースが読み聞かせをしてくれたなら、もっと面白くなるのだと思う。おかたいノマーク神話だって、彼が面白おかしくやや脚色して語ってくれたからこそ好きになったのだ。
(でもさすがに、この歳にもなって読み聞かせをしてもらうわけにはいかないし。……フィースはあいかわらず忙しそうだし)
ステラルへ行って以来、彼とあまり話をしていないし、それどころか顔すらほとんど合わせていない。
(……寂しい)
以前にも増してそう思うようになった気がする。
ふと、妖精の湖でのことを思い出す。
フィースの体温、吐息。それから――秘めやかな箇所をまさぐる角ばった指先と、首すじや乳房を這う熱い舌の感覚。
彼に指と舌で触れられたところを中心に、かあっと瞬時に熱がこもる。
『アリシア、顔が赤いよ。熱でもあるのかな?』
「えっ? ……ち、知恵熱かしら。この本、言い回しがすごく難しいから……読むのに苦労する」
アリシアは口もとを手で押さえ、机の端から端へと視線を走らせた。
唐突に、コンコンッと部屋の扉がノックされる。
「はい、どうぞ」
どうせルアンドだろう。アリシアは気のない返事をした。
「――朗報だ。アリシア、アドニス」
「……っ、フィース!」
アリシアはパッと顔をほころばせ、ガタンッと大きな音を響かせて椅子から立ち上がった。
(ああ、いけない。椅子から立ち上がるときは『木の葉が水面に舞い落ちるがごとく静かに』と、いま読んだ本に書いてあった)
アリシアはコホンと咳払いをしてのどの調子を整えたあとで、部屋のなかに入ってきたフィースに早足で近づき出迎えた。
「フィース、いらっしゃい」
『朗報って、なぁに!?』
フィースの訪問を喜んでいるのはアリシアだけではなかった。アドニスはパタパタとうるさく羽音を立てて彼のまわりを飛びまわっている。
「最近、シュバルツに入国した記録があって、かつユリオネの研究をしている機関が特定できたんだ。可能性としてはかなり高いんじゃないか、アドニス」
フィースはアドニスを目で追いながら言った。姿は見えていないだろうから、いまは羽音を頼りにしているのだと思われる。
『やったぁぁぁぁ!』
縦にグルグルと豪快に回転しながらアドニスは歓喜した。
『僕、喜びのパレードをしてくる!』
「パ、パレード? ……ひとりで!?」
ほんの少しだけ開いていた窓からアドニスは飛び出して行ってしまった。彼は物にさわることができないので、わざわざそこから出て行く必要はないと思うが――気持ちの問題だろう。
「フィース、座って。詳しい話を聞かせて? お茶を淹れるわね」
母親である王妃が侍女として働いていたことがあるからか、アリシアはティータイムにはみずから給仕をすることが多かった。ルアンドも、このことに関していつも口出しはしない。
アリシアはあらかじめ用意してあったティーワゴンでてきぱきと茶を淹れ、ソファに腰掛けているフィースに振る舞った。
「……ごめん。本来なら王女に茶を淹れさせるなんていけないことだけど」
「いいの、気にしないで。私がしたくてやってるだけなんだから」
フィースは「ありがとう」と言って紅茶をすすった。のどが渇いていたらしく、一気飲みだった。
「はー……。美味い」
「どんどん飲んで。パイもあるわ」
アリシアはアップルパイが載った皿をローテーブルの上に置き、ティーカップにふたたび紅茶を注いだあと、フィースのとなりに腰をおろして彼を見つめた。
アドニスに憑かれて以来、フィースの態度が幼いころのそれに戻ったような気がする。
妖精探しの件は城内では周知のことだ。リリアンの探索を大義名分に、フィースはアリシアの私室を気軽に訪れることができるようになった。
「……あら? フィース、目の下が少し――」
彼の目の下がほんの少し黒ずんでいるように見えた。
「え? ああ……。ステラルへ行ったときとは逆だな。あのときはアリシアが目の下にクマを作ってた」
フィースはここのところ毎晩遅くまで父親と一緒にユリオネの所在を調べていたらしい。
「それで、ユリオネについてなんだけど」
「――眠ったほうがいいわ! いまは休憩時間?」
アリシアは彼の言葉をさえぎって身を乗り出した。詰め寄る彼女になにを思ったのか、フィースはほんのりと頬を赤く染めている。ポリポリと赤い頬を指でかきながら言う。
「そうだけど……。でも、寝過ごしてしまいそうだし」
「起こしてあげるから大丈夫」
「……じゃあ、ひざまくらをしてよ。アリシア」
「え……」
今度はフィースがアリシアに詰め寄る。
「……イヤ?」
「や、イヤじゃ、ないよ。……でも、ベッドで横になるほうがよく眠れるんじゃ――」
「それだと熟睡しすぎる」
そう言うなり、フィースはポスッと勢いよくアリシアのひざに倒れ込んだ。
「……っ!」
アリシアは両手を上げ、そのままの状態でしばし固まる。
「アリシアの体……あたたかい」
彼の両腕が腰に巻きついてきた。フィースはアリシアの下腹部に顔をうずめている。
(わ、わわ……)
なぜこんなにもうろたえてしまうのか、理解不能だ。フィースを過剰に意識してしまっている。
そうして意識しているのはこちらだけなのか、フィースはすぐにスヤスヤと寝息を立て始めた。寝不足だからだろう。
どきどきと高鳴っていた心臓がしだいにもとの速さへ戻っていく。
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ルアンドはアリシアの専属侍従だが、彼女の世話を焼くことばかりが彼の仕事ではない。だからいまはひとりで――いや、アドニスと一緒に、極めて学習的な読書をしている。
アドニスはアリシアの肩のあたりに座り、分厚い本を彼女と一緒にのぞき込んだ。
『つまらなそうだね、アリシア』
「うん……。この本、なんのユーモアもひねりもなくて退屈だわ」
フィースが読み聞かせをしてくれたなら、もっと面白くなるのだと思う。おかたいノマーク神話だって、彼が面白おかしくやや脚色して語ってくれたからこそ好きになったのだ。
(でもさすがに、この歳にもなって読み聞かせをしてもらうわけにはいかないし。……フィースはあいかわらず忙しそうだし)
ステラルへ行って以来、彼とあまり話をしていないし、それどころか顔すらほとんど合わせていない。
(……寂しい)
以前にも増してそう思うようになった気がする。
ふと、妖精の湖でのことを思い出す。
フィースの体温、吐息。それから――秘めやかな箇所をまさぐる角ばった指先と、首すじや乳房を這う熱い舌の感覚。
彼に指と舌で触れられたところを中心に、かあっと瞬時に熱がこもる。
『アリシア、顔が赤いよ。熱でもあるのかな?』
「えっ? ……ち、知恵熱かしら。この本、言い回しがすごく難しいから……読むのに苦労する」
アリシアは口もとを手で押さえ、机の端から端へと視線を走らせた。
唐突に、コンコンッと部屋の扉がノックされる。
「はい、どうぞ」
どうせルアンドだろう。アリシアは気のない返事をした。
「――朗報だ。アリシア、アドニス」
「……っ、フィース!」
アリシアはパッと顔をほころばせ、ガタンッと大きな音を響かせて椅子から立ち上がった。
(ああ、いけない。椅子から立ち上がるときは『木の葉が水面に舞い落ちるがごとく静かに』と、いま読んだ本に書いてあった)
アリシアはコホンと咳払いをしてのどの調子を整えたあとで、部屋のなかに入ってきたフィースに早足で近づき出迎えた。
「フィース、いらっしゃい」
『朗報って、なぁに!?』
フィースの訪問を喜んでいるのはアリシアだけではなかった。アドニスはパタパタとうるさく羽音を立てて彼のまわりを飛びまわっている。
「最近、シュバルツに入国した記録があって、かつユリオネの研究をしている機関が特定できたんだ。可能性としてはかなり高いんじゃないか、アドニス」
フィースはアドニスを目で追いながら言った。姿は見えていないだろうから、いまは羽音を頼りにしているのだと思われる。
『やったぁぁぁぁ!』
縦にグルグルと豪快に回転しながらアドニスは歓喜した。
『僕、喜びのパレードをしてくる!』
「パ、パレード? ……ひとりで!?」
ほんの少しだけ開いていた窓からアドニスは飛び出して行ってしまった。彼は物にさわることができないので、わざわざそこから出て行く必要はないと思うが――気持ちの問題だろう。
「フィース、座って。詳しい話を聞かせて? お茶を淹れるわね」
母親である王妃が侍女として働いていたことがあるからか、アリシアはティータイムにはみずから給仕をすることが多かった。ルアンドも、このことに関していつも口出しはしない。
アリシアはあらかじめ用意してあったティーワゴンでてきぱきと茶を淹れ、ソファに腰掛けているフィースに振る舞った。
「……ごめん。本来なら王女に茶を淹れさせるなんていけないことだけど」
「いいの、気にしないで。私がしたくてやってるだけなんだから」
フィースは「ありがとう」と言って紅茶をすすった。のどが渇いていたらしく、一気飲みだった。
「はー……。美味い」
「どんどん飲んで。パイもあるわ」
アリシアはアップルパイが載った皿をローテーブルの上に置き、ティーカップにふたたび紅茶を注いだあと、フィースのとなりに腰をおろして彼を見つめた。
アドニスに憑かれて以来、フィースの態度が幼いころのそれに戻ったような気がする。
妖精探しの件は城内では周知のことだ。リリアンの探索を大義名分に、フィースはアリシアの私室を気軽に訪れることができるようになった。
「……あら? フィース、目の下が少し――」
彼の目の下がほんの少し黒ずんでいるように見えた。
「え? ああ……。ステラルへ行ったときとは逆だな。あのときはアリシアが目の下にクマを作ってた」
フィースはここのところ毎晩遅くまで父親と一緒にユリオネの所在を調べていたらしい。
「それで、ユリオネについてなんだけど」
「――眠ったほうがいいわ! いまは休憩時間?」
アリシアは彼の言葉をさえぎって身を乗り出した。詰め寄る彼女になにを思ったのか、フィースはほんのりと頬を赤く染めている。ポリポリと赤い頬を指でかきながら言う。
「そうだけど……。でも、寝過ごしてしまいそうだし」
「起こしてあげるから大丈夫」
「……じゃあ、ひざまくらをしてよ。アリシア」
「え……」
今度はフィースがアリシアに詰め寄る。
「……イヤ?」
「や、イヤじゃ、ないよ。……でも、ベッドで横になるほうがよく眠れるんじゃ――」
「それだと熟睡しすぎる」
そう言うなり、フィースはポスッと勢いよくアリシアのひざに倒れ込んだ。
「……っ!」
アリシアは両手を上げ、そのままの状態でしばし固まる。
「アリシアの体……あたたかい」
彼の両腕が腰に巻きついてきた。フィースはアリシアの下腹部に顔をうずめている。
(わ、わわ……)
なぜこんなにもうろたえてしまうのか、理解不能だ。フィースを過剰に意識してしまっている。
そうして意識しているのはこちらだけなのか、フィースはすぐにスヤスヤと寝息を立て始めた。寝不足だからだろう。
どきどきと高鳴っていた心臓がしだいにもとの速さへ戻っていく。