いたずらな花蜜 ~妖精がつなぐ未発達な恋心~ 《 第四章 03

(でも、アリシアは……)
 はっきりとそうだと断言はできないが、彼女は嫌がっていなかった。アドニスが戻ってこなかったら、もしかしたらあのまま――。
(いや、いや……。そういう問題じゃ、ないんだ)
 寝ぼけて唇を奪ってしまったのは、最近はアリシアとみだらなことをする夢ばかりを見るせいだ。
 アドニスがアリシアにイタズラを始めて以来、自身を慰める回数が極端に増えた。夢や妄想のなかで、幾度となく彼女を抱いている自分に嫌悪感すら覚える。そう思ういっぽうで優越感のようなものもあった。
(きっと、たぶん……アリシアにとって、なにもかも俺が初めてだ)
 思い至ると、異様なまでに心が満たされる。
 しかし、いまの状況はあくまで一過性のものだ。ユリオネの妖精が見つかったら、接点がなくなる。アリシアの私室を訪ねることも、行動をともにすることも。彼女の体に触れる理由が、なくなる――。
 ズンズンと早歩きをしていたフィースだが、急に足取りが重くなった。
 リリアンが無事に見つかって。
 アドニスがアリシアにイタズラをしなくなって。
 そうしたら自分はお払い箱だ。
 いつか彼女は分相応の相手と結婚して、それから――。
(アリシアに、ふさわしい男……)
 腹の底が瞬時に冷え、凍てつくようだった。見も知らぬ、まだ存在すらしていないアリシアの結婚相手に、強烈に嫉妬した。
(……なにを考えてるんだ、俺は。落ち着け)
 いますぐに彼女がだれかと結婚するわけではないのだ。
(……とにかくいまは仕事だ)
 ユリオネ探索に時間を割いていたぶん、騎士団の仕事が溜まっている。
 仕事のことを考えると、頬の熱がとたんに冷めていった。
 いまの仕事――騎士団の副団長というのは、周囲に勧められて就いた職ではなかった。両親が寛大なおかげで好きな仕事に励んでいられるが、ほかの――おもに年老いた親戚からは、父親のあとを継いで外交官になるか、あるいは国のなんらかの要職に就くべきだといつも苦言を呈される。それが、アッカーソン侯爵子息として相応の在り方なのだ、と。
 だから、舞踏会や茶会は嫌いだ。周囲にも「そういう目」で見られる。たまに顔を出す社交の場では「いつ侯爵位をお継ぎになるのですか」という質問をことごとく受け、いつも辟易する。
(侯爵位と外交官、か……)
 フィースは銀色の髪をガシガシとかきむしり、騎士団の屯所へと急いだ。


 フィースから朗報を聞いた三日後。アリシア一行はブロッサム国にいた。
 アドニスの恋人妖精リリアンが宿っている花ユリオネを秘密の花園から持ち出したのは、ブロッサム国の公的な研究機関だと判明したからだ。
「魔鉱石研究所、ね……」
 フィースが研究所を見上げてつぶやいた。
 ブロッサム国営魔鉱石研究所は隣接するブロッサム城と同じく、真っ白な壁に精緻な唐草模様がほどこされた荘厳な雰囲気の建物だった。ただ、城と違って大きな窓がひとつもないので、閉鎖的な印象を受ける。
「どうして小さな窓しかないのかしら」
 フィースのとなりに並んで立っていたアリシアは何気なく疑問を口にした。
「――魔鉱石は日光に弱いからですよ」
 アリシアの疑問に答えたのは、となりにいたフィースでも、ややうしろに控えていたルアンドでもない。知らない声が、うしろから聞こえた。
 アリシアは声がしたほうを振り返る。そこには白衣を着た黒髪の男が立っていた。両手は白衣のポケットのなかだ。振り返ったアリシアを見るなり彼はまぶたをパチパチと瞬かせた。
「……あの?」
 白衣の男は無言でアリシアを見おろしていた。こちらが先に名乗るべきだろうかと悩んでいると、男がゴホンとのどを鳴らした。
「あ、ええと……失礼。私はこの研究所の所長をしております、バート・カノーヴィルと申します」
 彼が名乗ると、タイミングを見計らっていたらしいルアンドがアリシアとフィースを紹介した。
 ひととおりの挨拶が済んだところでアリシアは白衣の男――バートに話しかける。
「本日はお忙しいところ無理をお願いしまして申し訳ございません、ミスター・カノーヴィル」
「いえ、いえ……。貴女のような可憐で麗しい王女殿下のご見学とあらば、喜んで」
 バートは頬を赤くして、食い入るようにアリシアを見つめている。
(……私の顔、なにかついてる?)
 じいっと見つめられる理由がわからず、さりげなく口もとを手でさすってみる。昼食のサンドイッチの残りかすが付着しているのかと危ぶんだが、そうではないようだ。気を取り直してバートに向き合う。
「お若いのに所長さんだなんて……驚きました。とても優秀でいらっしゃるんですね」
 アリシアが世辞を述べると、バートは黒い髪を恥ずかしそうに指でつまんでもてあそんだ。
 彼はおそらくアリシアと二、三歳しか違わず、しかしフィースよりは少しばかり若いと思われる。
「いやぁ、そんなことは……」
 アリシアの世辞を真に受けたバートが、はにかんだような笑みを浮かべた。そして、あいもかわらず熱心にアリシアを見つめている。
 彼の情熱的な視線の意味に、鈍感なアリシアは少しも気がついていなかった。
 そのいっぽうで、フィースの眉間に不愉快そうなシワが寄っているのを、ルアンドは静かに見つめていた。
「――それでは王女殿下、どうぞ研究所のなかへ」
 バートの案内で三人は魔鉱石研究所へと立ち入った。天井から吊り下がるランプが柔らかにエントランスホールを照らしている。
 失礼にならない程度にあたりを見まわす。
(研究所って、もっと暗い雰囲気なのかと思ってたけど……)
 建物内に太陽光は届かないが、そのぶんあちらこちらにオレンジ色のランプが配されているので、あたたかみがある。
「外観もそうでしたが、室内も素敵ですね」
 バートはどこか上の空で「それは、ありがとうございます」と言い、アリシアのすぐとなり、ななめ前を歩きながら研究所のなかを案内していった。
(ユリオネの花はどこだろう)
 初対面で、かつ国外の人間であるバートにいきなり妖精の話をするのは少々はばかられる。所内を巡るうちにユリオネを発見し、それがリリアンの宿る花なのかを確かめるのがいちばん自然な流れだと考え、機会をうかがうことにした。
 しかし所内は思いのほか広く、なかなかユリオネには出会わない。
(話を振ってみたほうがいいかしら……)
 研究でユリオネを用いていると小耳にはさんだのですが、とかなんとか言って尋ねてしまうほうが早いかもしれないと思い始めていると、廊下の先にテラスが見えた。目を凝らすと、花壇らしきものがあるのがわかった。

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