いたずらな花蜜 ~妖精がつなぐ未発達な恋心~ 《 第四章 05

 いまは一刻を争う事態だ。後悔するよりも、これからどうするべきかを考えなければならないと頭ではわかっているが、なかなか切り替えられずにいた。
『アリシア……』
 アドニスはアリシアの肩に乗り、彼女を見つめている。
「……彼は研究者だ。非現実的なことは受け入れられないんだろうな。ヘラヘラ笑ってフニャフニャ動いてるわりに頭はカッチカチなんだろ。いろいろと勘違いしてばっかだし」
 向かいのカウチに座っていたフィースがぶっきらぼうに言い捨てた。
 アリシアは顔を上げて目を丸くする。フィースが他人をそういうふうに言うのはめずらしい。驚いて、つい彼を凝視してしまう。
「……なに?」
 不機嫌そうな顔のままフィースはアリシアに視線を送る。
「え、いえ……。なんでもない」
 この部屋にはルアンドもいる。それなのにフィースはアリシアに敬語を使わない。
(まあ、私としてはそのほうがいいけど)
 彼にはつねに自然体でいてもらいたいので、敬語は不要だ。
(それにしても……。フィース、すごく機嫌が悪い)
 ハイティースタンドには彼の好物であるミックスベリージャムのタルトも載っているというのに、フィースはまったく手をつけていない。
 彼が不機嫌な理由を考える。騎士団の業務のかたわら睡眠時間を削りようやく見つけ出したリリアンを、すぐに連れ帰ることができないからか、あるいは――。
(私がうまくやれなかったから苛立ってる……のかも)
 フィースはユリオネ探索のために夜通し尽力してくれたというのに――と、申し訳のない気持ちでいっぱいになった。
 うつむくアリシアを、フィースはあいかわらず険しい表情のまま見つめて話し始める。
「とにかく、打開策を考えよう。アドニス、妖精は生き物にしか宿れないんだよな?」
『うん。植物か、動物にだけだよ』
「研究所の花壇には、ほかに宿れそうな花はなかった。そうなると、確実にリリアンをシュバルツへ連れ帰る方法はひとつだ」
 フィースは一呼吸おいてから言う。
「リリアンを、俺に憑かせよう」
「え……」
 顔を上げて正面を見つめる。フィースはほんの一瞬だけアリシアと目を合わせたが、すぐにふいっと視線を逸らした。
「リリアンをべつの花に宿らせたところで、切り花は枯れる可能性があるし、鉢を持ち歩くのも不自然だ。俺に憑かせるのが手っ取り早い。……で、どうすれば妖精はヒトに宿るんだ? アドニス」
『そうだねっ、それなら簡単だし確実だっ! フィースはユリオネに触れるだけでいいよっ!』
 アドニスはアリシアの肩から飛び上がり、両手を顔の横にくっつけてクルクルと回転し始めた。
(そういえば……。私のときも、蔓薔薇に触れただけだったような)
 というかむしろ、いつアドニスに憑かれたのかよくわからない。しかし本当に、たんに触れただけだった。特別なことはしていない。
「へえ……。意外とホイホイ乗り移れるんだな」
『むむっ? なんだかトゲのある言い方だね、フィース。ミスター・カノーヴィルのことが気に食わないのはわかるけど、八つ当たりはやめてほしいなぁ』
「なっ……! べつに俺は」
 フィースはアドニスの声がしたほうを向いた。しかし彼には妖精が見えない。アリシアとふたたび視線が絡むと、フィースはそれきり黙り込んだ。
「……では、研究所のテラスで茶会でもどうですかとミスター・カノーヴィルに申し入れをしてきます。念のため、ユリオネを処分しないようにともお伝えしておきましょう」
「そうね。名案だわ、ルアンド。よろしくね」
 扉のすぐそばに控えていたルアンドはさっそく部屋から出て行った。給仕の侍女がフィースとアリシアに紅茶を淹れなおす。
「……アリシア。ミスター・カノーヴィルと話をするときはくれぐれも注意して」
「え? 注意って……。ああ、ごめんなさい。やっぱり妖精の話をしたのはマズかったよね」
「いや、そうじゃなくて……。彼はきみに気があるようだから」
「まさか! そんなことないよ」
 フィースの口が、なにか言いたげにひらく。しかし続く言葉はなく、ティーカップの紅茶をグイッといっきにあおっただけだった。
「……散歩してくる」
「あっ、じゃあ……」
 私も一緒に行きたい、とは言えなかった。そう言う前に、フィースは仏頂面で部屋を後にしてしまったからだ。
「………」
 侍女が淹れてくれたばかりの紅茶からユラユラと立ち込める湯気を、アリシアはひそかなため息とともに静かに眺めた。


(なにをやってるんだ、俺は……)
 散歩をしてくると言って部屋を出たものの、正しくは頭を冷やしてくる、だ。
 フィースはブロッサム城の廊下をカツカツと靴音を響かせて歩き、手近なバルコニーに出た。頬に当たる風はシュバルツ国よりもつめたい気がする。
 バルコニーからは魔鉱石研究所を見おろすことができた。テラスは反対側のようで、ここからは見えない。
 ――バート・カノーヴィルはアリシアに惚れてしまったに違いない。
 彼女の魅力はいちばんよく知っていると自負している。むしろアリシア自身がもっともそれを知らないのだと思う。
 研究所を見学していたときのことを思い起こす。熱に浮かされたような顔で、どこかいやらしさも感じる眼差しでバートが彼女を見るたびにはらわたが煮えくり返った。しかし――。
(俺も、あの男と似たようなものなのか?)
 自分はアリシアの婚約者ではない。ただの幼なじみだ。彼女は俺のものだ、と主張する権利などないし、そもそも実情としてアリシアは自分の手のなかにあるわけではない。
 ここのところ、彼女の顔を眺めていると無性に触れたくなる。つややかな髪に、すべやかな肌に、みずみずしい唇に。そして、秘められたところに――。そこに触れたら、アリシアがどういうふうに啼きどんな表情を見せるのか知ってしまったせいだ。自制するのに手一杯になってしまい、目すらまともに合わせられないという体たらくだ。
(リリアンを俺に憑かせたら……終わる。終わってしまう)
 だがここまできて、身勝手な理由でアドニスの恋路を邪魔するわけにはいかない。それに、妖精といえど命にもかかわる危機的な状況だ。一刻も早く解決したいと、本心から願っている。
(……ミスター・カノーヴィルはアリシアに対してなにか行動を起こすだろうか)
 彼が起こしうるあらゆる行動の可能性を考えると、腹の底がグツグツと沸き立って熱くなる。
 あせりと憤りがないまぜになった感情をもてあまし、フィースはバルコニーの手すりをぎゅうっと握りしめた。

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