いたずらな花蜜 ~妖精がつなぐ未発達な恋心~ 《 第四章 08

 テラスにはだれもいなかった。舞踏会はまだ始まったばかりだ。早々にここで休憩をとる者など、アリシアたちのほかにはいない。
「……っ!」
 アリシアは幼なじみの騎士によってテラスの角に追いやられた。ダンスホールからは絶妙に見えない――死角だ。
 背と左側は壁、正面にはフィース、そして右側は彼の腕に囲い込まれている。
「アリシアは少し無防備すぎるんじゃないか。……隙だらけだ」
 ダンスホールからの明かりと、庭の外灯がそれぞれに淡くフィースを照らす。彫りの深い顔立ちに、まばらな光が影を落とす。薄暗くとも、彼が苛立っているのはよくわかった。
「あ、あの……」
「ああいうときは、もっとちゃんと嫌がるべきだ」
 クイッとあごをつかまれ上を向かされる。彼が近づいてきているのか、それとも自分が吸い込まれているのかわからなくなった。
 柔らかな銀色の前髪が、額に触れる。
「――ほら、ちゃんと拒絶して」
 いままでに見たこともない、ひどく悲痛な面持ちだった。
 目が、離せない。
 顔を、そむけられない。
 鼻先が、わずかに触れ合った。
 ふたりは目を開けたまま、ほんの一瞬だけ唇を重ねた。
「……なんで抵抗しないんだ、アリシア」
 いまにもふたたび唇が触れそうな位置でフィースが咎めてきた。
(だって……嫌じゃ、ないから)
 彼にはいつも、思ったことをそのまま伝えてきた。しかしいまはどうしてか、それができない。
「こ、婚前の王女の唇を奪うなんて言語道断……じゃ、なかったの?」
「……そうだな。言語道断だ」
 翡翠色の、すがるような視線がアリシアを射抜く。
 それまで険しさしか感じられなかった彼の顔つきが、幾分か和らいでいるような気がした。
「その……。もう、怒ってない?」
「べつに……。初めから怒ってなんかいない」
「そう……よかった」
 安堵したことでいっきに緊張感が消えた。
 口もとは優しげにゆるみ、眉尻は穏やかに下がっている。彼にそんな表情を向けることで、どういう事態を引き起こすのかアリシアは微塵も理解していない。
「……っ」
 フィースが短く息を吸い込む。
 そしてその次の瞬間には、目の前が翡翠色でいっぱいになった。
「ンッ……!」
 先ほどの、触れるだけの口付けとは明らかに違った。角度を変えながら貪るように何度も下唇を食まれている。
 しだいに頭のなかがクラクラとしてきて、目を開けていられなくなった。瞳を閉じると、口付けはいっそう激しくなった。さも当然のごとく、我がもの顔で熱い舌が口腔に侵入してくる。
「ふっ、んぅ、う」
 口のなかに舌を挿れられても、さして驚かなかったし嫌だとも感じなかった。
 数日前、彼が寝ぼけて口付けてきたときの続きのようにすら思える。
 鼻から抜ける自分の息が、とんでもなく熱い。鼻息が荒いと思われていないか心配になったものの、静かに呼吸することなんてできなかった。
 口のなかを、彼の舌が暴れまわっている。うわあごを舌で蛇行されると、体をくすぐられているわけではないのにムズムズとしてきて、四肢の先端に力がこもってしまう。
 無意識にフィースの腕をぎゅうっとつかんでいた。アリシアの、すがるような仕草にフィースは悦び、ますます舌の動きを盛んにする。
「んっ、ん……。ふっ……!」
 自身の舌が所在なげに口のなかをさまよう。すると、フィースのそれに絡めとられ、さらにはじゅうっと水音を立てて吸い上げられてしまった。
「ンン……ッ!」
 アリシアは肩をすくませて身じろぎする。彼女の頭と腰をつかんでいたフィースの両手が動き出す。顔、首すじ、鎖骨――と、肌が見えているところをフィースはあますところなく撫でまわした。
 そしていまは、淡いピンク色のドレスごしに体をまさぐられている。
(……く、くすぐったい)
 素肌に触れられるだけでもそうだったけれど、わき腹のあたりに手を這わせられ、笑い出してしまいそうだった。
 口のなかはいまだにフィースの舌でいっぱいだから、たとえ笑ってしまったとしても声にはならないだろう。
 アリシアがもだえているのに気がついたのか、フィースはそっと唇を離した。唾液が糸を引く。
「……部屋に戻ろう」
「えっ? でも……来たばかりなのに」
「いいから、早く」
 フィースがアリシアの手首をつかむ。ふたりはテラスの階段を駆けおり庭へ出た。
「え、えっ!? 部屋に戻るのよね?」
 いったんダンスホールへ戻るのだと思ったが、フィースはどうしてか足早に庭を歩いている。アリシアは彼に手を引かれ、小走りでついていく。
「ダンスホールを通らなくてもゲストルームに戻れるんだ」
「そう、なの……。でもどうしてこんな道を知っているの?」
「賓客が出入りできる範囲ならすべて把握してる。俺の役目はきみを守ることだから。……騎士としては」
 あとから付け加えられた言葉が胸につかえた。騎士としてではなかったら、彼はどうするつもりなのだろう――。
 庭を抜け、外廊下を通り、あてがわれていたゲストルームに到着する。
 部屋の前に見張りとして立っていたブロッサム城の衛兵にフィースが話しかける。
「王女殿下は体調が優れない。だれが訪ねてきてもなかに入れないでほしい。シュバルツの侍従がやって来たら、姫には騎士がつきっきりで介抱しているから平気だと伝えてくれ」
「――は、かしこまりました」
 アリシアはパチパチとまばたきをした。フィースにうながされるままゲストルーム――賓客の寝室に入る。
「あの、フィース? 私、元気だよ」
「………」
 年上の幼なじみ騎士はなにも言わず後ろ手に扉を閉めた。カチャン、という金属音が小さく響く。

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