いたずらな花蜜 ~妖精がつなぐ未発達な恋心~ 《 第五章 02

「もう生い茂ってるな……」
 ノマーク神話の聖地である秘密の花園までの道には、以前なぎ倒したはずのツルがまたはびこっていた。前に訪れたときも、ブロッサムの魔鉱石研究所の人間が立ち入ったあとだったと思うのだが、たった数週間でこうなってしまうのだから、ここに自生する植物の繁殖力はすさまじい。
 フィース、アリシア、ルアンドの順に洞窟のなかを進み、ひらけた空間にたどり着く。
「うーんっ、やっぱり綺麗なところね!」
 アリシアは両腕を垂直に上げ、気持ちよさそうに伸びをしている。
 今日はこのあいだと違ってよく晴れている。真上から降り注ぐ陽光が、花々をいっそう美しく照らしていた。
「アドニスはまたあの萌黄色の蔓薔薇に宿るのか?」
 フヨフヨと花の上を飛びまわるアドニスに向かって話しかけた。
『うんっ、そのつもりだよ! リリアンはどうする?』
 アドニスのそばで不機嫌そうにしていたリリアンがあたりを見まわす。
『そうねぇ……。今度は私も蔓系の植物にしようかしら。花を持ち去られても根が無事なら問題ないし。……ああ、あのピンク色の蔓薔薇にする』
 リリアンが細い指で指し示す先には白に近いピンク色の蔓薔薇があった。ユリオネにも少し似た、どこか気品にあふれた優雅な花だ。
「ふたりがまた花に宿ったら……姿は見えなくなっちゃうのよね……? 寂しいな……」
 そう言ってアリシアはしょんぼりとこうべを垂れた。
『ノンノン、大丈夫! 一度、妖精に憑かれた人間はその身から妖精がいなくなってもずっと僕らを視認できるよ! きみたちの子も孫もひ孫の代になってもね!』
 世間一般の人間には見えないものが、無条件に見える――それはそれで迷惑のような気もするが。
「そうなの!? それはよかった!」
 アリシアは嬉しそうだ。あまり深く考えていないのか、手放しに喜んでいる。彼女は実直で純粋だ。そんなところもやはり愛おしいと思ってしまう。
『よしっ、それじゃあアリシアは萌黄色の蔓薔薇に、フィースはあっちのピンク色の蔓薔薇にさわって』
 アドニスの指示どおり、アリシアは萌黄色の蔓薔薇へ、フィースはピンク色の蔓薔薇へと近づく。
「さわるのは、どこでもいいのか?」
 そばにいたリリアンに尋ねる。
「ええ、どこでもいいわ。花びらのほうが、トゲがなくていいかもね」
「そうだな」
 フィースはリリアンの勧めにしたがってピンク色の花びらに触れた。
(……っ、なんだ?)
 とたんに、強烈な喪失感に襲われた。わけもなく涙が出そうになった。
 妖精たちとの別れには、多少は寂しさを感じていたが涙を流すほどではないと思うのだが――。
 妖精の憑依が解けたことで、もとからある感情にかかわらずそうなっているのかもしれない。
 アリシアはどうだろうと振り返ってみる。
「アドニス、リリアン。また……会いにくるからね」
 彼女のほうは、碧い瞳から大粒の涙をぼろぼろと惜しみなく降らせていた。
「……アリシア」
 年下の幼なじみな頭を撫でて、抱きすくめてやりたい。しかしルアンドが邪魔だ。後方で、まるで監視しているような――そんな視線を向けられている。
 愛しい彼女を抱きしめてなぐさめることは、できなかった。


 ブロッサム国を発ち、秘密の花園を経由してシュバルツに帰国した数日後、フィースはブロッサム国の地酒を手土産に父親の寝室を訪ねた。
 フレデリック・アッカーソンはすでにテラスで晩酌をしていた。母親は今夜は急患があったらしいので不在だ。
 テラスからは王城をのぞむことができた。城は小高い丘の上にあるので、王都ならばほとんどの場所から見ることができる。
「――父さん、俺……侯爵位が欲しい」
 しばらくたわいない話をしたあとで切り出した。酒で火照った頬に当たる夜風はつめたく心地がよい。
「……ほう? 伯爵位すら要らないと言っていたおまえが、いきなり侯爵か。いったいどういう了見だ」
 丸いテーブルを挟んでとなりに座る父がワインを一口あおってから尋ねてきた。彼の口もとはほころんでいる。フィースの心境の変化を面白がっているようにも見える。
 フィースはワイングラスをテーブルの上に静かにコトンと置いた。
「第一王女を娶るには、伯爵位よりも侯爵位のほうがいいだろ。……俺はアリシアの『然るべき相手』になりたい」
 まったく同じ質感の銀髪が双方それぞれサラサラと夜風に揺れる。
 髪の毛とは対照的にフィースの口もとは一文字に引き結ばれ、フレデリックのほうは弧が描かれていた。
「べつにいまのままでも、求婚できないわけではないだろ。アリシアは爵位や肩書きを気にするような子ではない」
「そうだけど……。ないよりはあるほうが、絶対にいい」
 ぎゅうっと握りこぶしを作ってフィースは言う。
「だれにも文句を言われず、だれからも祝福されたい。……彼女が、不憫な思いをしなくていいように」
 しばしの間があった。フレデリックがワインをいっきにあおる。空になったグラスにフィースがボトルからワインを継ぎ足す。
「それは……周りの親戚の言いなりになって侯爵を継ぎ、騎士団を辞めて外交官になるってことか?」
「客観的にはそうなるけど……。そうしたいのは、間違いなく俺の意思だよ。俺自身が、望んでそうなりたいと思ってる」
 そう告げたあとは妙に心臓がドクドクと脈打った。酒が入っているせいもあるかもしれないが、父がどういう反応をするのかわからないからだ。甘えるな、と一喝されるか、あるいは――。
 ふっ、とフレデリックが微笑した。悠然と穏やかにほほえんでいる。いったいなにを考えているのか皆目見当がつかない。
「まあ……そうだな、エリックに相談してみろ。そう簡単には騎士団を辞められないかもしれないぞ――」


 直属の上司である騎士団長エリックのもとを訪ねたフィースは緊張していた。
 エリックはとても気さくな男だ。フィースよりも20歳ほど年上でかつ上司なわけだが、幼いころから見知っているので話をするのに気を遣ったことはほとんどなかった。
「今日は妙にあらたまって……どうしたんだ? フィース」
 昼下がり、鍛錬場のそばにある団長室でエリックと相対したフィースはギクリと顔を強張らせた。
(まだなにも言っていないのに……。なぜわかるんだろう)
 言い出しづらい話をしにきたのだと、すでに知られているような気がする。思い起こせば、彼はいつもなんでもお見通しだった。

前 へ    目 次    次 へ