いたずらな花蜜 ~妖精がつなぐ未発達な恋心~ 《 第五章 03

 フィースは覚悟を決め、退団して外交官を目指すことをエリックに告げた。
「――へえ、それはまた唐突だな」
 彼が座る椅子がギシッと大きな音を立ててきしんだ。椅子は古いわけではない。エリックの体が並の男よりもガッチリとしていて、しかも長身のため、椅子にかかる負担が大きいというだけだ。
「上司としていちおう聞いておくが、騎士団の仕事になにか不満でも?」
「いえ、いっさいありません。外交官になりたいというのは、俺の一方的なワガママです」
「ふむ、たしかにワガママだな。おまえはすでに副団長という――責任ある立場だってのに。なぜ外交官になりたいんだ? 外交官という仕事にどんな魅力を感じている?」
「……俺は、その」
 言葉に詰まった。正直なところ、外交官にはなんの魅力も感じていない。ただ肩書きとしては立派で、かつ父親から譲り受けることができれば安易でよいと浅はかに考えただけだ。
 フィースはそのことを正直に吐露した。それから、なぜ地位名声が欲しいのかということも。
「――ははっ、そんなことだろうと思ったよ。だがいいのか? それじゃあ結局、親のすねかじりだ。誰からも文句を言われない結婚にはならないんじゃないか?」
「……っ」
 彼の言うとおりだと思った。
 フィースの表情がかげると、エリックはなにを企んでいるのか、ニイッと口角を上げた。
「フィース、俺と剣を交えろ。もしおまえが勝ったら、俺が騎士団長として所有している侯爵位とこの椅子を譲ろう。役職としては、国王直下の命を受けるという点では外交官に劣らない。それに騎士団は基本的に実力主義だからな。強い者が頂点に立つのは当たり前だし、実力がともなっていれば誰も文句は言わない。だがおまえが負けたときは……退団は認めない」
 騎士団長に就任する者はシュバルツ領土において位置的に国防上肝要となる侯爵領を爵位とともに国王から拝受することになっている。
(たしかに……地位と名声が一挙に手に入る)
 しかし、あくまで彼に勝つことができればの話だ。
 エリックは剣の師匠でもあった。実戦経験豊富な彼に、齢23の自分は勝つことができるのだろうか――。
 ためらう余地などないのはわかっている。しかしフィースは返事ができずにいた。
「……地位名声を抜きにすれば、姫様にはおまえが似合いだと思っている。だがあらかじめ言っておく。俺は絶対に手を抜かない。八百長は見る者が見ればすぐにわかるからな。ああ、もしおまえが負けたら、俺が姫様に求婚するのもいいな」
 フィースが顔を上げる。その面には隠しようのない闘争心が表れていた。
「……求婚なんてさせない」
 うなるような声音は低く、淑女が聞けばおびえるだろう。しかしエリックはいっそう笑った。まるで新しい遊びを見つけた子どものように。
「おお、いい目だ。ではさっそく国王に申し入れをしてこよう。おまえが姫様に求婚するつもりだというのは、伏せておいてやるよ。国王陛下は姫様を愛しすぎているからなぁ……。たとえ俺に勝利しても、国王をどうにかしないことには結婚は無理かもな」
 エリックは嘲笑して、手のひらで左目のあたりを覆った。いつになく感傷的な彼のこの仕草の不自然さに、ふだんのフィースならばすぐに気がつくのだが、このときはエリックに挑発されて平常心ではなかった。フィースはあからさまにむすっとしてエリックをにらむ。
 しかし、彼をにらんだところでどうしようもない――。


 その日の夜はふだんよりもさらに鍛錬に励んだ。食堂で夕食を終えたときにはすっかり深夜になっていた。
(エリックに勝つには、長期戦に持ち込むしかない)
 体力だけはまさっている自信がある。ほかの部分は、まだまだ彼には及ばないとわかっている。
(体調を整える必要があるな……)
 禁欲は必須だ。一週間後のその日まで、アリシアのことを考えないようにしなければならない。そう思った、矢先。
「……――フィース!」
 幻聴かと思った。彼女のことを考えないと決意したばかりだったから、その反動で脳がアリシアを欲してしまったのかと――。しかしそうではなかった。
 ネグリジェにナイトガウンを羽織っただけのアリシアがこちらへ小走りしてくる。
「アリシア! きみ、そんな恰好で……こんなところで、なにをしてるんだ!?」
 はあはあと息を切らせて駆け寄ってきたアリシアは胸もとを押さえて呼吸を整えた。
「……っ、あなたを、探してたの。だってエリックと……け、けっ……」
「……彼と結婚なんてしないよ」
 からかうと、アリシアはぷうっと頬をふくらませた。
「エリックと決闘するって聞いて……! いったいどうしたの!? どうしてそんなことに……」
「べつに、おかしなことじゃないだろ。エリックだって、先代の騎士団長からはそうして譲り受けたじゃないか」
「そうだけど、だって……。エリックが騎士団長に就任したのはほんの数年前じゃない。退任するにはまだ早すぎる気がする」
 慣例的にはたしかにアリシアの言うとおりだった。
 騎士団長という役職はおもに30代後半から10年ほどを担う。団長の座を引き継ぐさいの決闘は形式的なものが多く、一種の祭りのようなものだった。
 しかし今回は違う。言うなれば、まだまだ騎士団長として脂が乗っているエリックからその座を強引に奪わねばならない。
「アリシアは俺に騎士団長は務まらないと思ってるんだ?」
 ああ、とても嫌な訊きかたをしてはぐらかしている。しかし本当のことは言えない。彼女にいっそう、よけいな気を遣わせてしまうだけだ。
「……そんなことないわ。フィースならきっと……。でも、エリックはまだまだ現役バリバリなのよ? その、いま決闘なんかして……あなたが怪我をしないか心配で」
「つまり、アリシアは俺がエリックよりも弱いから怪我をさせられると思っているわけか」
「……ッ、フィース」
 アリシアがその可憐な顔をはかなげにゆがめた。彼女の両腕が、伸びてくる。
 ふわりと香るのは、年下の幼なじみの匂い。落ち着く匂いであるのと同時に――矛盾しているような気もするが――情欲をかき立てられる。
 アリシアはフィースの背に腕をまわして抱きつき、首を横に何度も振った。
(……胸が)
 やわらかな双乳が体に当たっている。こんな無防備な状態で城内をうろついていたのだと思うと、いてもたってもいられなくなった。寝室警護の団員は新人ではなく、アリシアに言いくるめられたりしない中堅の人間を配備せねばならない。
「……アリシア」
 胸にばかり気を取られていて気づくのが遅れたが、彼女はかすかに震えていた。よほど心配なのだろう。
 可愛い。愛おしい。けれど――。
 フィースは自身を押し殺す。高鳴る鼓動を無視する。抱きしめ返して、やわらかな唇やほかのところにも口付けて貪り尽くしたいのを必死に我慢する。

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