フィースはアリシアの肩に手を置き、そっと彼女の体を引き離した。
「大丈夫だから。心配しないで、アリシア」
彼女の碧い瞳にはうっすらと涙が浮かんでいる。そんな表情で見上げられては本当にたまらないのだが、ここで顔をそむけていてはアリシアを不安にさせてしまうかもしれない。
フィースはやっとの思いでなんとかほほえみを作り、アリシアを見つめ返した。
「……部屋の前まで送るよ」
部屋のなかに入ってしまったら抑えがきかなくなりそうなのでそう言った。
「……うん」
アリシアはまだ納得がいかないようすだ。眉間にシワを寄せてうつむいている。
フィースは身をかがめ、彼女の眉間にキスを落とした。とたんに、そこのシワが消え失せる。
「……っ。あ、の」
うろたえるアリシアに、フィースは軽い調子で言う。
「あまり考え込んでいると眉間のシワが消えなくなるから、ね――」
騎士団長の座をかけた決闘は従来なら形式じみたもので、会場に集まる人はそう多くはないのだが、今回は就任して数年の騎士団長をいわば蹴落とすような異例の決闘ということで注目を浴びてしまったらしく、決闘会場である鍛錬場には多くの王侯貴族が物見遊山に集まった。
(ここまで大ごとになるとは思っていなかった)
鍛錬場の壁際にしつらえられた観客席を、控え室の小窓から眺める。客入り――というのは少し違うような気もするが――とにかく満員御礼だ。
鍛錬場は半地下にあり、大きな開口部はない。天井近くに横長の格子窓があるが、通風口はそこだけだ。ただでさえ蒸し暑くなりやすいというのに、これほど大勢の人間が集まるとよけいに熱気がこもる。城の侍女や、貴族たちが連れてきたメイドは扇で主人たちを仰いだり飲み物を用意したりと忙しそうだ。まったくご苦労なことだと心底思う。
(……どれだけの人に見られていようと関係ない。勝つことだけを考えよう)
フィースは観客席を見るのをやめて丸椅子に腰掛け、剣の手入れを始めた。決闘用の剣は実戦で使うものよりも脆く切れ味も悪い。とはいえ、不利にならないよう手入れはしておきたい。
(それにしても、今日に至るまでがあまりにも早かった気がする)
エリックが国王に申し入れをした当日、決闘の開催日までとんとん拍子で決まった。国王だけでなく議会の承認もすんなりと得られたというのが少々気味が悪い。エリックは騎士団長として誰もが認める存在だからだ。それなのに――。
そもそも決闘を許さないというような反対意見は少しも出なかったのだろうか。
(……俺はエリックには到底勝てない、と思われてるのか)
フィースの闘争心がくすぶり始める。彼はもともと負けん気が強いほうだった。決闘に至るきっかけはアリシアだったが、いざ戦うとなれば貪欲に勝利を望む。
真剣を鞘に収めて腰ベルトに下げ、姿見の前で団服の襟もとを正し、フィースは控え室を出た。
わあっと歓声が起こった。しかしそれよりも、美しく着飾ったアリシアが上座にいるのをすぐに見つけてしまい、面食らった。
控え室の小窓からは見えない、ほかよりも一段高い位置に彼女は座っていた。公務中ということもあってアリシアは淑やかに振る舞っている。ほかの王侯貴族に引けをとらないようにするためなのか、耳や首もとには多数の宝飾品が輝いている。彼女が身につけているドレスもふだんよりも豪奢だ。
まるで人形のようだった。そういう恰好をしていても美しいのには違いないが、アリシアはなにも身につけていなくても充分すぎるほど――いや、むしろ裸でいるほうがいっそう素晴らしいのを知っているだけに、どことなく口惜しい。
(……絶対に手に入れる。俺だけのものだと示してやる)
アリシアのそばへ次々と挨拶にやって来る貴族の若い男どもを一瞥し、フィースは決意を新たに一歩を踏み出した。
鍛錬場の壇上でエリックと相対する。ピリピリとした緊張感がどうしてか心地よく感じる。実戦ならばこうはいかない。
過去、騎士団長の座をかけた決闘で死者は出ていない。せいぜい捻挫や打撲、悪くて骨折ていどだ。
(けど――……)
これは遊びではない。観客にとっては暇つぶしのひとつなのだろうけれど、当事者にとっては違う。
(……エリックはどういうつもりでこの話を持ちかけてきたんだ?)
フィースにとっては、勝利さえできればとても都合のよい話だ。しかし彼にはなんのメリットもない。そうまでして自分に騎士団を退団させたくないのだとは、どうしても思えない。
エリックは他人の生き方に寛大だ。アリシアが姫らしからぬことをしていても、黙って見過ごすような――いや、むしろ手伝いさえするような男だ。
(エリックが騎士団長を退いても、彼は伯爵領を持っているから生活には困らないんだろうけど)
だからといって騎士団長の職務を嫌に思っているふうでもない。日々楽しそうだ。
(……いけない。そんなことはいまはどうでもいい)
邪念を振り払い、剣を抜き、構える。それまでガヤガヤとうるさかった観客が、水を打ったように静まり返った。
エリックと言葉は交わさない。
始まりの合図は、鐘――。
ガキンッ、と鋼同士がぶつかり合う音がこだまし、同時に観客席が一気に沸いた。
「……っ!!」
鐘の音が重々しく鳴り響くなり、いきなり激しい剣撃にあった。
(俺が長期戦に持ち込みたいのを分かっていて攻めてきてる)
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「大丈夫だから。心配しないで、アリシア」
彼女の碧い瞳にはうっすらと涙が浮かんでいる。そんな表情で見上げられては本当にたまらないのだが、ここで顔をそむけていてはアリシアを不安にさせてしまうかもしれない。
フィースはやっとの思いでなんとかほほえみを作り、アリシアを見つめ返した。
「……部屋の前まで送るよ」
部屋のなかに入ってしまったら抑えがきかなくなりそうなのでそう言った。
「……うん」
アリシアはまだ納得がいかないようすだ。眉間にシワを寄せてうつむいている。
フィースは身をかがめ、彼女の眉間にキスを落とした。とたんに、そこのシワが消え失せる。
「……っ。あ、の」
うろたえるアリシアに、フィースは軽い調子で言う。
「あまり考え込んでいると眉間のシワが消えなくなるから、ね――」
騎士団長の座をかけた決闘は従来なら形式じみたもので、会場に集まる人はそう多くはないのだが、今回は就任して数年の騎士団長をいわば蹴落とすような異例の決闘ということで注目を浴びてしまったらしく、決闘会場である鍛錬場には多くの王侯貴族が物見遊山に集まった。
(ここまで大ごとになるとは思っていなかった)
鍛錬場の壁際にしつらえられた観客席を、控え室の小窓から眺める。客入り――というのは少し違うような気もするが――とにかく満員御礼だ。
鍛錬場は半地下にあり、大きな開口部はない。天井近くに横長の格子窓があるが、通風口はそこだけだ。ただでさえ蒸し暑くなりやすいというのに、これほど大勢の人間が集まるとよけいに熱気がこもる。城の侍女や、貴族たちが連れてきたメイドは扇で主人たちを仰いだり飲み物を用意したりと忙しそうだ。まったくご苦労なことだと心底思う。
(……どれだけの人に見られていようと関係ない。勝つことだけを考えよう)
フィースは観客席を見るのをやめて丸椅子に腰掛け、剣の手入れを始めた。決闘用の剣は実戦で使うものよりも脆く切れ味も悪い。とはいえ、不利にならないよう手入れはしておきたい。
(それにしても、今日に至るまでがあまりにも早かった気がする)
エリックが国王に申し入れをした当日、決闘の開催日までとんとん拍子で決まった。国王だけでなく議会の承認もすんなりと得られたというのが少々気味が悪い。エリックは騎士団長として誰もが認める存在だからだ。それなのに――。
そもそも決闘を許さないというような反対意見は少しも出なかったのだろうか。
(……俺はエリックには到底勝てない、と思われてるのか)
フィースの闘争心がくすぶり始める。彼はもともと負けん気が強いほうだった。決闘に至るきっかけはアリシアだったが、いざ戦うとなれば貪欲に勝利を望む。
真剣を鞘に収めて腰ベルトに下げ、姿見の前で団服の襟もとを正し、フィースは控え室を出た。
わあっと歓声が起こった。しかしそれよりも、美しく着飾ったアリシアが上座にいるのをすぐに見つけてしまい、面食らった。
控え室の小窓からは見えない、ほかよりも一段高い位置に彼女は座っていた。公務中ということもあってアリシアは淑やかに振る舞っている。ほかの王侯貴族に引けをとらないようにするためなのか、耳や首もとには多数の宝飾品が輝いている。彼女が身につけているドレスもふだんよりも豪奢だ。
まるで人形のようだった。そういう恰好をしていても美しいのには違いないが、アリシアはなにも身につけていなくても充分すぎるほど――いや、むしろ裸でいるほうがいっそう素晴らしいのを知っているだけに、どことなく口惜しい。
(……絶対に手に入れる。俺だけのものだと示してやる)
アリシアのそばへ次々と挨拶にやって来る貴族の若い男どもを一瞥し、フィースは決意を新たに一歩を踏み出した。
鍛錬場の壇上でエリックと相対する。ピリピリとした緊張感がどうしてか心地よく感じる。実戦ならばこうはいかない。
過去、騎士団長の座をかけた決闘で死者は出ていない。せいぜい捻挫や打撲、悪くて骨折ていどだ。
(けど――……)
これは遊びではない。観客にとっては暇つぶしのひとつなのだろうけれど、当事者にとっては違う。
(……エリックはどういうつもりでこの話を持ちかけてきたんだ?)
フィースにとっては、勝利さえできればとても都合のよい話だ。しかし彼にはなんのメリットもない。そうまでして自分に騎士団を退団させたくないのだとは、どうしても思えない。
エリックは他人の生き方に寛大だ。アリシアが姫らしからぬことをしていても、黙って見過ごすような――いや、むしろ手伝いさえするような男だ。
(エリックが騎士団長を退いても、彼は伯爵領を持っているから生活には困らないんだろうけど)
だからといって騎士団長の職務を嫌に思っているふうでもない。日々楽しそうだ。
(……いけない。そんなことはいまはどうでもいい)
邪念を振り払い、剣を抜き、構える。それまでガヤガヤとうるさかった観客が、水を打ったように静まり返った。
エリックと言葉は交わさない。
始まりの合図は、鐘――。
ガキンッ、と鋼同士がぶつかり合う音がこだまし、同時に観客席が一気に沸いた。
「……っ!!」
鐘の音が重々しく鳴り響くなり、いきなり激しい剣撃にあった。
(俺が長期戦に持ち込みたいのを分かっていて攻めてきてる)