いたずらな花蜜 ~妖精がつなぐ未発達な恋心~ 《 第六章 05

 アリシアは騎士団長の部屋を目指して駆けた。ドレスの裾をバタバタとせわしなくひるがえしてひたすら走る。
 ローゼンラウス侯爵がいる部屋の前につくころにはすっかり息が弾んでいた。
「――わたしっ、フィースと結婚する!」
 ノックもせずに騎士団長の部屋へ入り、執務机に駆け寄った。
 フィースは羽根ペンを片手に持ったまま唖然としている。
「あ、ごめんなさい……。いきなり扉を開けてしまって」
 しかも扉は開けっ放しだ。
 フィースは目を丸くしたままアリシアに言う。
「いや、いいけど……。少し驚いた。いきなり現れるから。このあいだも……いや、きみはいつもそうだ」
 ほがらかな笑みを見せ、フィースはクスクスと声を漏らす。
「……もしかしたらきみの父さんが反対するかもしれない」
 椅子から立ち上がりながらフィースが言った。執務机をまわり込み、そばへやってくる。
「そんなの、私がどうにかするわ」
 アリシアの鼻息は荒い。この部屋まで走ってきたせいもある。
「え、と……。それで……」
 フィースを見上げていたアリシアだが、ふいっと視線を逸らして言いよどんだ。
「アリシア? なぁに」
 フィースは身をかがめて彼女の顔をのぞき込む。
 パチリと目が合った。ごく近い距離で見つめ合うのなんて何度も経験していることだというのに、むしろそれ以上のこともしているというのに――心臓が高鳴って頬が熱くなってしまった。言い出しづらいことを胸の内に抱えているせいだ。
 アリシア、と名をもう一度呼ばれたところで意を決する。
「あ、あの……。け、結婚したら……また、できる? その……今度は、最後まで」
 翡翠色の瞳が左右にわずかに揺れた。そしてそのあとには、静かな長いため息。
(あ、あきれられてる……!)
 もともと赤かったアリシアの頬がいっそうその色を濃くする。
 アリシアは赤い顔を隠すように、さらにこうべを垂れた。
「……襲われたいのか? アリシア」
 両肩がズシリと重くなった。フィースの腕が首にゆるく巻きついている。
「その……きちんと、言ってもいいかな」
「――は、はいっ」
 両頬を包むのは広くあたたかな手のひら。そっと、上を向かされる。
「俺はきみをだれよりも知っているし、幸せにできる自信がある。だから……俺だけのものになってほしい」
 鐘の音の空耳が再来した。アリシアは言葉なくコクコクと何度もうなずく。そんな彼女を見てフィースはいかにもホッとしたような穏やかな笑みを浮かべた。しかし次の瞬間には、ほんの少しだがかげりを見せる。
「ミスター・カノーヴィルのところに嫁いだって、きっと不自由な思いをするだけだ。あのユリオネの花のように枯らされてしまう――」
 ゆっくりと頬を撫でる彼の手を心地よく思いながらアリシアは尋ねる。
「どうして、ミスター・カノーヴィルの話を?」
「舞踏会で口説かれていただろ」
 アリシアは目を丸くした。
「あ、ああ……。そうだったかしら。あの日の夜が、その……刺激的すぎて」
 すっかり忘れていたのだと述べると、あごをクイッと数本の指でつかまれた。
「そんなこと言っちゃだめだよ、アリシア。……いますぐしたくなってくる」
 口付けの予感が湧き起こる。目を閉じてそれに備える。
「うぉっっほん!」
 するとわざとらしい咳払いが聞こえてきた。驚いて目を見ひらく。
「そういうことは正式に婚約が成ってからにしていただきたい」
 開けっ放しだった扉の向こうから、ルアンドが憤然と言った。フィースはアリシアの肩とあごをつかんだままいつになくニイッとほほえむ。
「王女に求婚する身としては、他国の侯爵と遜色ないだろ」
「……さっさとそうなさればよかったのです」
 ルアンドはしかめっ面でつぶやいた。フィースはやや面食らっているように見受けられる。
「反対しないのか? ルアンド」
「私はあなたを嫌っているわけではありませんよ。いまのフィース殿ならじゅうぶん姫様にふさわしい――然るべき相手だ」
「……それは、光栄だ。これでようやく堂々とイチャイチャできる」
 大きく弧を描いた唇でフィースはアリシアのそれにちゅっと口付けた。突然のことだったので、目を閉じるいとまがなかった。
「……っ!! ですから、そういうことは正式にご結婚なさってからです! それから、公衆の面前ではご遠慮いただきたい! だいいち――」
 ルアンドのくどい説教などなんのその。フィースはまるで聞いていないようすで、アリシアに深い口付けをほどこしていった。


 フィース・アッカーソン・ローゼンラウス侯爵との婚約を泣き落としに近いかたちで父親に認めさせたアリシアは結婚式の準備を進めるかたわら、フィアンセとふたりで神話の聖地を訪ねた。
 いたずら好きの――いや、いま思えば恋のキューピッドのような妖精に結婚の報告をするためだ。


「え、と……どちらさまですか?」
 数ヶ月ぶりに訪れた秘密の花園で、アリシアは首をかしげて言った。
『ええぇっ! もう忘れちゃったの!? 僕だよぉー!!』
「いや、だって……。おまえ、本当にだれだ?」
 フィースは怪訝な顔をして、萌黄色の髪をした少年妖精に言った。フィースの質問にはべつの妖精が答える。
『これが彼の本来の姿よ。あのヘンテコなクマの擬態とは雲泥の差よね』
 彼に寄り添っているのは数ヶ月前と変わらぬ姿のリリアンだ。少年の腕にもたれかかるようにしてピタリとくっついている。どうやら妖精同士は触れ合うことができるらしい。
『いやぁ……。もっと早くこの姿に戻っておけばよかったよ。まあ、いまはリリアンとラブラブだから、べつにいいけどっ!』
 声や口調はあいかわらずなので、たしかにアドニスだとわかるのだが――ヒトの姿をした少年妖精はとても美しかった。
 艶と張りのある髪に、大きな二重まぶたは少し吊っているが活発そうな印象を受ける。瞳は髪とそろいの萌黄色。目と鼻、それから唇は非常にバランスのよい配置だ。
『そのようすだと……ふたりも、うまくいってるみたいだね?』

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