カッコン、と鹿威し(ししおどし)が鳴る庭を通って離れの個室に入った千夏たちは母親の友人が来るのを待っていた。
「何か……お見合いみたいだね」
千夏は向かいの空席ふたつを眺めながらつぶやいた。すると母は前を向いたまま平然と言う。
「あら、察しがいいじゃない」
涼しい顔でお茶をすすっている。千夏は目を見ひらいて母親を凝視した。
「ちょっと……いま何て?」
「だから、今日はお見合いなのよ。あなたの」
「なっ……!」
驚きのあまり言葉を失っていると、「失礼します」と女性の声が聞こえて襖が開いた。
色留袖を着た母の友人らしき女性のあとに、スーツの男性が続けて入ってきた。
(どうしよう……心の準備が)
お見合いだというこの状況について行けず、千夏は硬直していた。男性の顔を見る余裕もなくて、足もとばかりを見ていた。
「あれ……クマノ食品の土倉さん、ですよね?」
聞き覚えのある声がしたので顔を上げる。
「初見さん……!?」
「あら、あらあら……ふたりはお知り合いだったのかしら、これも縁ですわねえ、初見さん」
「ええ、本当に」
おほほほ、と何だか鼻につく笑い声を出しながら母親たちはお互いに目配せしている。
「いつもお綺麗ですが、今日は一段とお美しいですね。お母様とよく似ていらっしゃる」
取引先である初見酒造の社長、初見《はつみ》大樹《だいき》は、ひとのよさそうな笑みを浮かべてそう言った。
ドクン、ドクンと全身の血流が増していた。社交辞令な褒め言葉に笑い返すこともできない。
「ありがとうございます。この子ったら初見さんにお会いできてすごく嬉しかったみたいで、感激のあまり固まってしまっていますわ」
机の下の陰になっているところで母親は千夏の太ももを突ついた。
痺れた足にはとても辛い。千夏は営業スマイルにすらなっていないであろう ぎこちない顔でほほえんだ。
仕事のとき、初見と話をするだけでも緊張していたのにお見合いなんてもってのほかだ。
「まずはお互いに自己紹介しましょうか、一応ね」
初見の母親が品よくそう言った。咳払いをして口をひらく。
「初見 大樹、今年で32歳です。ご存知の通り酒造りの会社を経営しています」
爽やかなイケメンは千夏の苦手なタイプ。高ステータスとなれば尚更だ。
「……土倉 千夏です。食品商社営業部所属です。初見さんにはいつもお世話になっています」
「いえいえ、こちらこそ」
(接待、そうだこれは接待だ。そう思えば乗り切れる)
次々と運ばれてくる日本料理はどれも美味しそうだったけれど、あまり箸が すすまなかった。初見の母親の威圧感が凄まじくて、品定めされているような気分になった。
「休日はいつもなにをなさっているの?」
初見の母親に尋ねられ、千夏は返答に困って言いよどんだ。
(腐った漫画を読んでるなんて言えない……どうしよう、ここは適当に)
「買い物に行ったり、家で映画を見たりしています」
平凡だ、むしろ平凡すぎて悪趣味を隠しているのが知れてしまうかもしれない。
「そうなんですか、俺も休日は家でDVDを見てることが多いんですよ。奇遇ですね」
映画鑑賞などという普遍的な趣味に奇遇もへったくれもあるか、と心の中だけで言った。しかしそれが顔に出てしまっていたのか、
「土倉さん、どうかされましたか? 先ほどからあまり元気が無いようですが」
初見は箸を置いて千夏の顔を覗き込んだ。
(顔、近い……っ!)
うっかり「ひっ」とうめき声を上げてしまい、千夏は口もとを手で抑えた。袖が箸置きに当たって、カチャンとはしたない音を立ててしまう。
「もう、この子ったら……初見さんがあんまりにも素敵だから緊張して粗相ばかり、ごめんなさいね」
おほほほ、とまたしても気味の悪い笑い声がこだまする。
(もう、帰りたい……)
料理は喉を通らないし、足も痺れて限界。目の前の高ステータスなイケメンは爽やかすぎて目の毒だし、その隣のおばさんは高圧的すぎて押し潰されそうだ。
「それじゃあ、あとは若い人たちに任せて……私たちはおいとましましょうか、土倉さん」
お見合いの定番台詞を吐いて、初見の母親が席を立った。
「これ、持ってなさい。着替えとメイク道具一式、入れてあるから」
千夏の母親は小声でそう言って、大きなボストンバッグを託してきた。
(何でそんなものをわざわざ……。邪魔になるだけなのに)
千夏も母親に合わせて小声で「うん」と言い、ふたりを見送った。
「何だか疲れちゃいましたね」
母親たちが出て行くと、初見はふうっと息を吐いてあぐらをかき、ネクタイをゆるめた。
「土倉さんも足を崩したらどうです、もう長いこと正座してますよね」
「……すみません、失礼します」
千夏は足を崩して足袋をさすった。痺れすぎて感覚がない。
「このあとはなにかご予定ありますか、土倉さん」
「いえ、特にはなにもありません」
「休日なのに申しわけないのですが、新商品のテイスティングをしてもらいたいので、俺の家にきていただけませんか?」
穏やかにほほえみながら、あっさりとそう言って初見は湯のみを口にした。
(初見さんの……家に?)
途端に心拍数が上がる。いやいや、彼は真面目な人だし、きっと一刻も早く商品を売り込みたいだけ。そうに決まってる。
「はい、お伺いします」
色よい返事に満足したのか、初見は満面の笑みで湯のみをテーブルに置いた。
(う……気持ち悪い)
締めすぎた帯のせいか、初見のマンションに着くころには気持ちが悪くなっていて、千夏は足を引きずるようにして彼の部屋に入った。
「大丈夫ですか、顔色が悪いですよ」
「着物が、きつくなってきてしまって……っう」
「帯、ゆるめますよ」
あまりの気持ち悪さで、部屋に入るなり座り込んでしまった。初見は手際よく帯留めをはずしてゆるめていく。胴まわりを締めつけていた帯がなくなると、いくらかマシになった。
「何か……お見合いみたいだね」
千夏は向かいの空席ふたつを眺めながらつぶやいた。すると母は前を向いたまま平然と言う。
「あら、察しがいいじゃない」
涼しい顔でお茶をすすっている。千夏は目を見ひらいて母親を凝視した。
「ちょっと……いま何て?」
「だから、今日はお見合いなのよ。あなたの」
「なっ……!」
驚きのあまり言葉を失っていると、「失礼します」と女性の声が聞こえて襖が開いた。
色留袖を着た母の友人らしき女性のあとに、スーツの男性が続けて入ってきた。
(どうしよう……心の準備が)
お見合いだというこの状況について行けず、千夏は硬直していた。男性の顔を見る余裕もなくて、足もとばかりを見ていた。
「あれ……クマノ食品の土倉さん、ですよね?」
聞き覚えのある声がしたので顔を上げる。
「初見さん……!?」
「あら、あらあら……ふたりはお知り合いだったのかしら、これも縁ですわねえ、初見さん」
「ええ、本当に」
おほほほ、と何だか鼻につく笑い声を出しながら母親たちはお互いに目配せしている。
「いつもお綺麗ですが、今日は一段とお美しいですね。お母様とよく似ていらっしゃる」
取引先である初見酒造の社長、初見《はつみ》大樹《だいき》は、ひとのよさそうな笑みを浮かべてそう言った。
ドクン、ドクンと全身の血流が増していた。社交辞令な褒め言葉に笑い返すこともできない。
「ありがとうございます。この子ったら初見さんにお会いできてすごく嬉しかったみたいで、感激のあまり固まってしまっていますわ」
机の下の陰になっているところで母親は千夏の太ももを突ついた。
痺れた足にはとても辛い。千夏は営業スマイルにすらなっていないであろう ぎこちない顔でほほえんだ。
仕事のとき、初見と話をするだけでも緊張していたのにお見合いなんてもってのほかだ。
「まずはお互いに自己紹介しましょうか、一応ね」
初見の母親が品よくそう言った。咳払いをして口をひらく。
「初見 大樹、今年で32歳です。ご存知の通り酒造りの会社を経営しています」
爽やかなイケメンは千夏の苦手なタイプ。高ステータスとなれば尚更だ。
「……土倉 千夏です。食品商社営業部所属です。初見さんにはいつもお世話になっています」
「いえいえ、こちらこそ」
(接待、そうだこれは接待だ。そう思えば乗り切れる)
次々と運ばれてくる日本料理はどれも美味しそうだったけれど、あまり箸が すすまなかった。初見の母親の威圧感が凄まじくて、品定めされているような気分になった。
「休日はいつもなにをなさっているの?」
初見の母親に尋ねられ、千夏は返答に困って言いよどんだ。
(腐った漫画を読んでるなんて言えない……どうしよう、ここは適当に)
「買い物に行ったり、家で映画を見たりしています」
平凡だ、むしろ平凡すぎて悪趣味を隠しているのが知れてしまうかもしれない。
「そうなんですか、俺も休日は家でDVDを見てることが多いんですよ。奇遇ですね」
映画鑑賞などという普遍的な趣味に奇遇もへったくれもあるか、と心の中だけで言った。しかしそれが顔に出てしまっていたのか、
「土倉さん、どうかされましたか? 先ほどからあまり元気が無いようですが」
初見は箸を置いて千夏の顔を覗き込んだ。
(顔、近い……っ!)
うっかり「ひっ」とうめき声を上げてしまい、千夏は口もとを手で抑えた。袖が箸置きに当たって、カチャンとはしたない音を立ててしまう。
「もう、この子ったら……初見さんがあんまりにも素敵だから緊張して粗相ばかり、ごめんなさいね」
おほほほ、とまたしても気味の悪い笑い声がこだまする。
(もう、帰りたい……)
料理は喉を通らないし、足も痺れて限界。目の前の高ステータスなイケメンは爽やかすぎて目の毒だし、その隣のおばさんは高圧的すぎて押し潰されそうだ。
「それじゃあ、あとは若い人たちに任せて……私たちはおいとましましょうか、土倉さん」
お見合いの定番台詞を吐いて、初見の母親が席を立った。
「これ、持ってなさい。着替えとメイク道具一式、入れてあるから」
千夏の母親は小声でそう言って、大きなボストンバッグを託してきた。
(何でそんなものをわざわざ……。邪魔になるだけなのに)
千夏も母親に合わせて小声で「うん」と言い、ふたりを見送った。
「何だか疲れちゃいましたね」
母親たちが出て行くと、初見はふうっと息を吐いてあぐらをかき、ネクタイをゆるめた。
「土倉さんも足を崩したらどうです、もう長いこと正座してますよね」
「……すみません、失礼します」
千夏は足を崩して足袋をさすった。痺れすぎて感覚がない。
「このあとはなにかご予定ありますか、土倉さん」
「いえ、特にはなにもありません」
「休日なのに申しわけないのですが、新商品のテイスティングをしてもらいたいので、俺の家にきていただけませんか?」
穏やかにほほえみながら、あっさりとそう言って初見は湯のみを口にした。
(初見さんの……家に?)
途端に心拍数が上がる。いやいや、彼は真面目な人だし、きっと一刻も早く商品を売り込みたいだけ。そうに決まってる。
「はい、お伺いします」
色よい返事に満足したのか、初見は満面の笑みで湯のみをテーブルに置いた。
(う……気持ち悪い)
締めすぎた帯のせいか、初見のマンションに着くころには気持ちが悪くなっていて、千夏は足を引きずるようにして彼の部屋に入った。
「大丈夫ですか、顔色が悪いですよ」
「着物が、きつくなってきてしまって……っう」
「帯、ゆるめますよ」
あまりの気持ち悪さで、部屋に入るなり座り込んでしまった。初見は手際よく帯留めをはずしてゆるめていく。胴まわりを締めつけていた帯がなくなると、いくらかマシになった。