ロストヴァージンまでの十日間 《 第四話 社長の自宅

「シャワーでも浴びます? 少しは気分がよくなるかもしれないですよ」

初見は千夏の着物の帯や紐を取り去りながら言った。

「そうですね、それじゃあ お言葉に甘えて……。あのっ、あとは自分でできますから」

気が付くと肌襦袢にまで彼の手が伸びていて、千夏は慌てて胸もとを押さえた。

「そうですか? では、バスルームにご案内しますね」

悪意を感じないほほえみを浮かべて初見は立ち上がって手を差し出してきた。そんなことをされなくてもひとりで立てる。千夏は「本当に大丈夫ですから」と言ってその手は取らず、自力で立った。


(まさかお母さんの着替えセットが役に立つなんて)

母に持たされたボストンバッグには ご丁寧にバスタオルまで入っている。千夏は服を着て、ごく薄く化粧をしてバスルームを出た。

「あれ、ドライヤー使ってくださってよかったのに」

お風呂から出てきた千夏を見るなり初見が駆け寄ってきて、ふたたびバスルームに押し戻された。

「きちんと乾かさないと風邪を引きますよ」

「え……あの、初見さんっ……?」

鏡の前に立たされたかと思うと、初見はドライヤーのスイッチを入れて千夏の髪の毛を乾かし始めた。

「昔はよくこうやって妹の髪を乾かしてたんです」

「そう……なんですか」

(だからって何で私の髪を乾かすのよ……。う、くすぐったい)

時おりうなじに触れる彼の手に過剰に反応してしまい、千夏は小さく肩を震わせた。

「はい、終わり」

千夏はハッとして鏡を見た。彼に髪の毛を触られるのに慣れてしまっていて、それが心地よくてぼうっとしていた。

「ありがとうございます」

「どういたしまして」

鏡越しにほほえみ、初見はドライヤーを棚に戻した。

(初見さんって、よく笑うひとよね……。私とは正反対)

自営業という職業柄なのか、初見は愛想がいい。それをいうなら営業職の千夏もなのだが、おかしくもないのに笑えないというのが正直なところだ。

「土倉さん、もしご気分がよかったらテイスティングをお願いしたいのですが、いかがでしょうか」

「大丈夫です、喜んで」

千夏はダイニングの椅子に座り、新商品だと言って出された日本酒を口にした。

「甘口で飲みやすいですね。女性受けがよさそう」

「そうなんです、土倉さんのように働く女性をターゲットにしているんです。これ、昨日の残り物ですがよかったらどうぞ。先ほどはあまり食が進んでいらっしゃらなかったですよね」

料亭顔負けの山菜のおひたしまで振舞われ、千夏は「すみません」と謝りながら箸を取った。

(よく気がつくし、もてなし上手。逆の立場だったら、私にできるかな……)

平日はもちろん休日だって特に凝った料理なんかしない。出汁のきいたおひたしを食べ進めながら、千夏は彼と自分を比べて落胆した。

つまみが美味しかったせいか お酒が進み、気がつけばかなりの量を飲んでいた。

「本当にごちそうさまでした。そろそろ失礼します」

日も傾いてきたし、あまり長居しては彼も困るだろう。酒には強いと自負していたのに、急に立ち上がると少しフラついた。

「大丈夫ですか? 酔ってますよね」

千夏は「大丈夫です」と言いながら両手に荷物を持って玄関へ向かった。すると、

「送って行きますよ、荷物も多いですし」

「いえ、ただでさえご迷惑をおかけしてるのに悪いです。タクシーで帰りますから」

「いいから、送らせて」

両腕が軽くなる。片手に荷物を持った初見は千夏の背を押しながら部屋を出た。


初見のマンションから千夏の自宅まではそれほど離れていなかった。それでも、しんとした間がつらい。初見はあまり積極的に話しかけてこなかった。

「土倉さん、今日は一応お見合いだったわけですが、まずはお友達からということでどうですか」

やっと口をひらいたかと思えば、ずいぶんと急な話題だった。

「そう……ですね。よろしくお願いします」

仕事の相手から友達になったところで、なにが変わるわけでもない。これはおそらく、遠まわしに見合いを断っているのだろうと思い、千夏はすぐに返事をした。
初見のような素敵な男性に、性悪の自分はふさわしくないと、そう思った。

前 へ    目 次    次 へ

前 へ    目 次    次 へ