ロストヴァージンまでの十日間 《 第六話 夢と現

想像していたものと現実が違うことはよくある。恋愛に対して臆病で夢見がちな千夏は、唇になにかが触れているこの状態がキスだとは思わなかった。

「ん……っ!?」

酒を飲み過ぎたせいで鼻が詰まっている。息苦しくて千夏はうめいた。うっすらと目を開けると、誰かの顔が間近にあって、心のなかだけで驚いた。

「……起きた? 千夏さん」

ポタリと頬に水滴が落ちた。彼の髪の毛の先からこぼれたものだ。シャワーを浴びた直後なのか、目の前の男性の髪は濡れている。そのひんやりとした雫で完全に目が覚めた。

「な……っ!?」

見知らぬ和室の布団のうえで、上半身裸の男が千夏に覆いかぶさっている。

「えっと……樹生、くん。そこ、どいてくれないかな」

「名前、覚えてくれてたんだ。新人泣かせの土倉千夏さん」

「何で、それ……」

「武彦がいつも愚痴ってたから。美人だけどおっかない上司がいるって」

「……っあ、の……っ、ん!」

「処女って、本当?」

スーツのうえからふくらみの先端を指で押され、とっさに胸もとを押さえようとしたらその手をふたつとも片手でつかまれ、頭上にひとまとめにされてしまい自由が利かなくなった。

(やだ……怖い……っ)

29年間、貞操の危機などという事態には陥ったことがなかった。むしろ処女だということに少なからず引け目があって、早く捨てたいと思っていたのに、いざそうなるかもしれないと思うと湧き起こる恐怖心で全身がおののいた。

震えは口もとにまできてしまい、歯がガタガタと揺れた。樹生は黙ったままじいっとこちらを見つめていた。

「千夏さん、そういうのって性欲を逆撫でするから、控えたほうがいいよ」

「ひ……っ!?」

喘ぎ声には程遠い悲鳴を口走って千夏は身体をこわばらせた。控えるもなにも、こんなに色気のない反応をしているのになぜ彼がそんなことを言うのかわからない。
脚を押さえ付けるように馬乗りになった彼は片手で千夏の両腕をつかんだままジャケットのボタンをはずしていった。

「やだ……っ、止め……てっ」

ほとんど声になっていなかった。それでも、四肢は動かせないから口で抵抗するしかない。

「……そんなに嫌?」

「嫌に、決まってる……でしょ、っぅ!」

千夏を試すように樹生はブラジャーのカップに指を這わせ、敏感な先端をカリッと引っかいた。けれど心地よさなんて感じない。あるのは恐怖と嫌悪感だけ。

「……わかった、やめとく。このままじゃレイプになりかねないし」

樹生は身を起こして千夏のとなりに座り、あぐらをかいた。
乱されてしまった衣服を整えながら、千夏も起き上がる。

「ここは……店の奥?」

「うん、そう。俺の家」

店先の間口は狭く感じたけれど、奥行きはあるらしい。開け放たれた襖の先にはいくつか部屋があるようだった。

「あ、食事代を払わなくちゃ……。おいくらですか」

「それなら武彦が全部払ってったよ」

「そう……。それじゃ、お邪魔しました。帰るわ」

武彦に借りを作ってしまった自分自身に少し苛立ちながら畳にひざをつく。

「もう深夜だよ。終電もないし、泊まってけば」

「タクシーで帰るから大丈夫よ」

「こんな夜中にお姉さんひとりで乗ったりしたら、なにされるかわからないよ」

「馬鹿なこと言わないで。平気よ、子どもじゃないんだから」

「わかってないなー、俺が運転手だったら間違いなく襲う」

「……だったらあなたが私の家まで送ってくださる?」

「やだよ面倒くさい……。っくしゅ」

樹生はくしゃみをして鼻をすすった。それが何だか可愛いらしくて、つい顔がほころんでしまった。

「なにニヤニヤしてんの。責任取って俺の髪を乾かして」

「待って、私に何の責任が……ちょっと!」

強引にドライヤーを持たされてしまい戸惑っていると、彼は背を向けて「寒いから早く」と言い催促してきた。千夏は渋々 彼のうしろに座り込んでドライヤーのスイッチを入れた。

(初見さんの時とは逆だな……。乾かしてもらうのも気持ちよかったけど、これもなかなか)

樹生の黒髪は猫のように柔らかく、触り心地がいい。本当に猫を撫でているような気分になってなごんだ。



「いいからここで大人しく寝て。なにもしないから」

「もっ、もう、してるじゃない……。やだったら……っふ」

「そういう声は出すなって」

布団に組み敷かれたと思ったら、瞬く間に衣服を脱がされて下着姿になってしまった。なぜか先ほどみたいな震えはこないけれど、それでもやっぱり怖い。
両腕で胸もとを隠していると、樹生は部屋の明かりを消した。

「はい、よい子は寝る時間。おやすみ、千夏さん」

年下の樹生に子ども扱いされるのは心外だ。けれどひとつの布団のなかできつく抱き締められていて、千夏は身を固くしたままなにも反論できなかった。

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