ロストヴァージンまでの十日間 《 第七話 一宿一飯の恩義

カタン、カタンという物音で千夏はまぶたを開けた。辺りはまだ薄暗い。店の方から差す光を頼りに千夏は服を着て部屋を出た。

「あ、ごめん。起こしちゃったね。まだ寝てていいよ」

「大丈夫よ。仕込み? 朝早くから大変ね」

「まあ、これが仕事だから」

「なにか手伝えることある?」

「え、いいよ。ゆっくりしてて」

「泊まらせてもらったお礼になにかしたいの。というかなにかしなくちゃ気が済まない。借りは作りたくないから」

「それ、すげえ千夏さんらしい気がする」

クス、と笑った彼の顔は誰かに似ていて、でもそれが誰なのかは思い出せなかった。

「じゃあ店のなかと外の掃除、頼んでいいかな」

「任せて。掃除道具は――」

それから千夏は道具一式を借りて掃除に励んだ。きっと彼は毎日掃除をしているのだろう。もともとそんなに汚れてはいない。
千夏は黙々と仕込みをする樹生のかたわらで同じくひとことも話さずにカウンターをクロスで拭いた。
タイルの床はモップがけして、店先のアスファルトはほうきで掃いて水をまいた。まだ陽も昇らない早朝から水をまくのは何だか清々しい。
元来、掃除は好きなほうだからまったく苦にならなかった。しっとりとした店先の路面は涼やかな初夏を思わせた。

掃除を終えて店のなかへ戻ると、カウンターには一汁三菜の立派な朝食が用意されていた。

「千夏さん、お疲れ様。どうぞ、食べて」

「え……いいの?」

「うん、遠慮しないで。腹減ってるでしょ。俺もいまから食うし」

樹生は厨房から客席側にまわり込んできて、カウンターの椅子に座った。「いただきます」と小さく言って箸を取っている。
食欲をそそる焼き魚の香ばしい匂いに釣られて千夏は彼のとなりに座り、同じように食事の挨拶をして手を合わせた。

(昨夜も思ったけど、本当においしい。濃くないのに、味がしっかり付いてる)

おいしさのあまり無言で食べ進めていた。ふと気が付くと、先に食べ終わった樹生がこちらを見つめていて、千夏はゴホゴホと咳き込んだ。

「……っな、なに?」

「ん、綺麗だなあと思って」

柔らかな、少し癖のある黒髪がフワリと揺れた。樹生は頬杖をついて千夏の顔をのぞき込んでいる。

「魚を食べるのが綺麗だなあと、感心してた」

樹生は悪戯が成功した子どものようにニッとほほえんだ。当然、自分の見た目を褒められたのだと勘違いしていた千夏は恥ずかしくなってグルンと顔を正面に向け、香り立つ味噌汁をすすった。

「ご馳走様でした。朝食代はおいくら?」

「要らないよ。この程度で金なんか取れない」

「すごく美味しかったの。だからお金を払うのは当然よ」

千夏はカウンターの隅に置いていたハンドバッグから財布を取り出して千円札を二枚、ポンとテーブルのうえに置いた。

「要らないって言ってんだろ。頑固だな」

樹生はチッと舌打ちをして近づいてきて、千円札を手に取ったかと思うと千夏の身体を抱き寄せた。ジャケットのポケットにお金を押し込まれ、それをふたたび取り出そうとしていると、

「俺は金よりも千夏さんが欲しい」

薄笑いを浮かべた樹生にあごをつかまれ、千夏は身の危険を感じて彼の胸を押しのけようとした。けれど頭と腰をガッチリと固定されてしまい身じろぎひとつできない。

「やっ……!」

せめてもの抵抗にと顔を背けたものの、後頭部を押さえ付けられているから意味を成さず、いとも簡単に唇を塞がれてしまった。

「っふ、ぅ……っ」

唇が重なるだけならまだよかった。鼻で上手く息ができなくて口をひらくと、そのわずかな隙間から生温かい舌先が歯列を舐めた。

「んっ、んん……!?」

キスの経験が乏しい千夏はこれがディープキスなのだということにあとから気が付いた。初めは彼の舌が気持ち悪くてしかたなかったのに、だんだんと感覚が麻痺して、なぜか身体の奥がジンッと熱くなってきた。

「……何て顔してんの」

自身の唇の端を赤い舌でペロリと舐め、樹生は千夏の頬を撫でた。自分がいまどんな顔をしているかなんてまったくわからない。ただ、ジッと見つめられるのに耐えられなくなってうつむき、ゆるくなっていた拘束をかいくぐって彼から距離を取った。

「帰るわ。会社、行かなくちゃ」

髪の毛を耳にかけながら千夏は出口へ向かった。結局、食事代は支払っていないけれど、これ以上ここにいたらなにをされるかわかったものではない。

「千夏さん、今度の日曜はなにしてる?」

「……特に予定はない」

千夏は入り口の木製引き戸に手をかけたまま言った。相手の顔を見ずに話すのは失礼だけれど、いまは振り返りたくなかった。

「日曜は早く店を閉めるんだ。だからその日の夕方にまたきて、千夏さん。俺、待ってるから」

ひどく甘ったるい声だった。切実に願っているような、そんな言いかただ。

「……気が向いたらね」

小さな声でそう言って、千夏は店を出た。

(やだ、私……何でハッキリ断らなかったんだろう)

平気で唇を奪ってくるような彼とまた会うなんてゴメンだと思っているはずなのに、心のどこかでは違うのか、期待させるようなことを口走ってしまった。

(そもそも、私が押しに弱いのがいけないのよ。今度、会ったらきちんと言わなくちゃ。軽々しくこういうことをしないでって)

千夏は早足で駅へ向かいながらそんなことを考えていた。
ふたたび会うことを前提にしてしまっていることに、千夏は気が付いていなかった。

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