いつもより少し遅めに出社すると、いのいちばんに同僚の結花が駆け寄ってきた。
「千夏っ、どうだった? シンの店主は」
「シン……? ああ、店の名前そんなんだったっけ」
「しっかりしてよ、お嫁に行くことになるかもしれないひとの店なんだから! で、どうだった?」
「結花が期待してるようなことはなにも無かったよ」
結花は盛大に「ええーっ!」と叫んで千夏のデスクの椅子に座り込んだ。上司はまだ出社していないけれど、後輩もいるんだから目立つ行動はやめて欲しい。それをうったえるべく目を細めて結花を見おろしていると、
「何だ、あの子見た目どおり草食なのー?」
そうでもないのだが、あえて口にはしなかった。この話題はもう終わりにしたい。
「そういうわけだから、そこどいて。仕事、溜まってんのよ」
「はいはい」と言いながら結花はノロノロと立ち上がった。いかにも残念そうな同僚の背を横目で見送りながら、千夏は席について深呼吸をした。
***
約束の日曜日、いつもより早く目が覚めた千夏は朝から散歩に出かけた。昼間は珍しく街に出て服を買い、家に帰ってアレコレとコーディネートしていた。
(こっちのほうが可愛いかな……。でもこれじゃ若作りしすぎな気もするし……。っと、いけない、そろそろ化粧しよう)
時計の針は4時をまわっていた。普段なら化粧は数分で済ませるところだが、この日は一時間を見積もっていた。
(どうせ私は魚の食べかたが綺麗な女よ)
振りまわされてばかりの年下を何とか見返したい、という思いがあった。それ以外には、なにもない……はず。
5時を少しすぎたところで千夏は家を出た。店は早めに閉めると言っていたけれど、いったい何時なのだろう。
電車に揺られること数分、目当ての和食居酒屋に着いた千夏は手鏡で顔をチェックしてからのれんをくぐった。
「いらっしゃいませ」
樹生は顔を伏せたまま相変わらず無愛想だったのだが、千夏と目が合うと少しだけ口角を上げてほほえんだ。
(やだ、可愛いじゃないの)
千夏は顔がほころぶのを我慢しながらいちばん奥の席に腰をおろした。店内にはまだ何人も客がいる。年配の男性から若い女性まで客層は幅広い。後者は樹生が目当てのような気もする。
(まだまだ営業中みたいね……。なにか食べよう)
そう思って注文しようとした矢先、お通しをスッと差し出された。酢の物のいい香りでますますお腹が空く。さっそく手を付けようとしていると、皿の下に不自然な状態で敷かれている白い紙切れが目に入った。
『閉店は7時。それまで飯食って待ってて』
走り書きだが、女性のように綺麗な字だった。ほかのお客さんがいる手前、直接は言えないんだろうけれど、特別扱いされているようで何だか嬉しかった。
視線を送ると、彼はまた微笑した。千夏は返事のつもりで小さくうなずいて、お通しを口にした。
閉店間際になると、客がひとり、ふたりと次々に帰っていき、店には樹生と千夏だけになった。
「またきてくれて嬉しいよ、千夏さん」
「……樹生くんの料理、おいしいから」
「それはどうも」
フッと彼が笑ったのがわかった。千夏はうつむいたままだから、笑顔は想像でしかない。
「ね、俺と付き合わない?」
「……っぶ」
すすっていたお茶を吹き出しそうになって、千夏はコホコホとむせた。
「な、にを、イキナリ」
「イキナリじゃないでしょ。またきてくれたってことは、脈はあるんだよね?」
「そんな……好きでもないひとと付き合うなんて」
「千夏さんって、ホント乙女だよね。でもそこがイイんだけど。大丈夫、すぐに好きになるから付き合おう。ハイ決まり」
樹生は洗い物をしながらほほえんでいる。千夏は口をパクパクと動かしながら、なにか言わなくてはと考えていた。けれど一向に言葉が出てこない。
「このあとどうする? どっか行きたいとこある?」
すっかり彼のペースに巻き込まれている。ちょっと待って、と言いかけたその時、ガラガラッと店の玄関扉が開いた。
「……土倉さん?」
そもそも高かった心拍数がさらに上がった。一週間ほど前にも似たような状況で彼を見上げたことがある。
「初見さん……!? こ、こんばんは。奇遇ですね」
「本当に、こんなところでお会いできるなんて嬉しいです」
「コンナトコロで悪かったな、兄貴」
(あ、兄貴……!?)
千夏は樹生と初見を交互に見くらべた。そういわれてみるとふたりはよく似ている。違いと言えば髪の毛の色と癖の有無くらいだ。むしろいままで気付かなかったことのほうが鈍いくらいだろう。
「おふたりはご兄弟だったんですね」
千夏は動揺を隠すように笑顔でそう言った。自分を振った男の弟と付き合う話になっていたなんて、初見に知られては気まずい。ガツガツと男を漁っていると思われそうだからだ。
「千夏さん、兄貴と知り合いだったんだ?」
樹生は千夏たちの関係を知りたいらしく、もの問いたげな目でこちらを見ている。彼の会社が取引先であることを伝えようとしていると、
「土倉さんとは結婚を前提に付き合ってる。このあいだ話したろ、お見合いしたって。その相手が彼女だよ」
悠然ととなりに腰をおろした初見に千夏は目を見張った。驚いたのは千夏だけではなくて、樹生も目を丸くしていた。
「……千夏さんはそうは思ってないみたいだけど」
樹生は無表情のまま初見にお茶を出しながら言った。それに対してコクコクとうなずくことしかできずにいると、
「俺、まずはお友達からって言いましたよね。ま、ず、は。つまり行く行くは結婚に至ると言うわけです」
なに食わぬ顔で湯のみを手にした初見に千夏は心底驚いた。それが彼の真意だとしたら、相当、察しがよくなければ伝わらない。
「ああ、じゃあいまはオトモダチなんだ。それじゃ、俺も千夏さんにアプローチしていいんだよね」
樹生の発言をまるで聞いていないのか、初見はほほえんだまま無言で携帯電話を取り出し、どこかに電話をかけ始めた。
「千夏っ、どうだった? シンの店主は」
「シン……? ああ、店の名前そんなんだったっけ」
「しっかりしてよ、お嫁に行くことになるかもしれないひとの店なんだから! で、どうだった?」
「結花が期待してるようなことはなにも無かったよ」
結花は盛大に「ええーっ!」と叫んで千夏のデスクの椅子に座り込んだ。上司はまだ出社していないけれど、後輩もいるんだから目立つ行動はやめて欲しい。それをうったえるべく目を細めて結花を見おろしていると、
「何だ、あの子見た目どおり草食なのー?」
そうでもないのだが、あえて口にはしなかった。この話題はもう終わりにしたい。
「そういうわけだから、そこどいて。仕事、溜まってんのよ」
「はいはい」と言いながら結花はノロノロと立ち上がった。いかにも残念そうな同僚の背を横目で見送りながら、千夏は席について深呼吸をした。
***
約束の日曜日、いつもより早く目が覚めた千夏は朝から散歩に出かけた。昼間は珍しく街に出て服を買い、家に帰ってアレコレとコーディネートしていた。
(こっちのほうが可愛いかな……。でもこれじゃ若作りしすぎな気もするし……。っと、いけない、そろそろ化粧しよう)
時計の針は4時をまわっていた。普段なら化粧は数分で済ませるところだが、この日は一時間を見積もっていた。
(どうせ私は魚の食べかたが綺麗な女よ)
振りまわされてばかりの年下を何とか見返したい、という思いがあった。それ以外には、なにもない……はず。
5時を少しすぎたところで千夏は家を出た。店は早めに閉めると言っていたけれど、いったい何時なのだろう。
電車に揺られること数分、目当ての和食居酒屋に着いた千夏は手鏡で顔をチェックしてからのれんをくぐった。
「いらっしゃいませ」
樹生は顔を伏せたまま相変わらず無愛想だったのだが、千夏と目が合うと少しだけ口角を上げてほほえんだ。
(やだ、可愛いじゃないの)
千夏は顔がほころぶのを我慢しながらいちばん奥の席に腰をおろした。店内にはまだ何人も客がいる。年配の男性から若い女性まで客層は幅広い。後者は樹生が目当てのような気もする。
(まだまだ営業中みたいね……。なにか食べよう)
そう思って注文しようとした矢先、お通しをスッと差し出された。酢の物のいい香りでますますお腹が空く。さっそく手を付けようとしていると、皿の下に不自然な状態で敷かれている白い紙切れが目に入った。
『閉店は7時。それまで飯食って待ってて』
走り書きだが、女性のように綺麗な字だった。ほかのお客さんがいる手前、直接は言えないんだろうけれど、特別扱いされているようで何だか嬉しかった。
視線を送ると、彼はまた微笑した。千夏は返事のつもりで小さくうなずいて、お通しを口にした。
閉店間際になると、客がひとり、ふたりと次々に帰っていき、店には樹生と千夏だけになった。
「またきてくれて嬉しいよ、千夏さん」
「……樹生くんの料理、おいしいから」
「それはどうも」
フッと彼が笑ったのがわかった。千夏はうつむいたままだから、笑顔は想像でしかない。
「ね、俺と付き合わない?」
「……っぶ」
すすっていたお茶を吹き出しそうになって、千夏はコホコホとむせた。
「な、にを、イキナリ」
「イキナリじゃないでしょ。またきてくれたってことは、脈はあるんだよね?」
「そんな……好きでもないひとと付き合うなんて」
「千夏さんって、ホント乙女だよね。でもそこがイイんだけど。大丈夫、すぐに好きになるから付き合おう。ハイ決まり」
樹生は洗い物をしながらほほえんでいる。千夏は口をパクパクと動かしながら、なにか言わなくてはと考えていた。けれど一向に言葉が出てこない。
「このあとどうする? どっか行きたいとこある?」
すっかり彼のペースに巻き込まれている。ちょっと待って、と言いかけたその時、ガラガラッと店の玄関扉が開いた。
「……土倉さん?」
そもそも高かった心拍数がさらに上がった。一週間ほど前にも似たような状況で彼を見上げたことがある。
「初見さん……!? こ、こんばんは。奇遇ですね」
「本当に、こんなところでお会いできるなんて嬉しいです」
「コンナトコロで悪かったな、兄貴」
(あ、兄貴……!?)
千夏は樹生と初見を交互に見くらべた。そういわれてみるとふたりはよく似ている。違いと言えば髪の毛の色と癖の有無くらいだ。むしろいままで気付かなかったことのほうが鈍いくらいだろう。
「おふたりはご兄弟だったんですね」
千夏は動揺を隠すように笑顔でそう言った。自分を振った男の弟と付き合う話になっていたなんて、初見に知られては気まずい。ガツガツと男を漁っていると思われそうだからだ。
「千夏さん、兄貴と知り合いだったんだ?」
樹生は千夏たちの関係を知りたいらしく、もの問いたげな目でこちらを見ている。彼の会社が取引先であることを伝えようとしていると、
「土倉さんとは結婚を前提に付き合ってる。このあいだ話したろ、お見合いしたって。その相手が彼女だよ」
悠然ととなりに腰をおろした初見に千夏は目を見張った。驚いたのは千夏だけではなくて、樹生も目を丸くしていた。
「……千夏さんはそうは思ってないみたいだけど」
樹生は無表情のまま初見にお茶を出しながら言った。それに対してコクコクとうなずくことしかできずにいると、
「俺、まずはお友達からって言いましたよね。ま、ず、は。つまり行く行くは結婚に至ると言うわけです」
なに食わぬ顔で湯のみを手にした初見に千夏は心底驚いた。それが彼の真意だとしたら、相当、察しがよくなければ伝わらない。
「ああ、じゃあいまはオトモダチなんだ。それじゃ、俺も千夏さんにアプローチしていいんだよね」
樹生の発言をまるで聞いていないのか、初見はほほえんだまま無言で携帯電話を取り出し、どこかに電話をかけ始めた。