ロストヴァージンまでの十日間 《 第九話 予期せぬドライブ

「もしもし母さん? いまから樹生のところで飲まない? ……うん、うん。じゃ、また後で」

どうやら初見は自分の母親をこの和食処に呼んだらしい。またあの高圧的な母親に会うのかと思うと途端に緊張したが、

「行こっか、土倉さん」

急に腕をつかまれて強引に立たされ、千夏は目を白黒させた。

「どこに行くつもりだよ、兄貴」

「母さん、父さんと一緒にすぐくるって。相手よろしくな」

「兄貴が呼んだんだろ、ここにいろよ」

「俺は急な接待が入ったってことにしといてくれ。じゃあな」

初見は千夏の腕をつかんでいないほうの手で樹生に手を振り、足早に店を出た。「待てよ!」と店主の怒声が響いたが、初見は気にするようすもなく歩き続けた。


「あのっ、初見さん……どこに行くんですか」

誘拐さながらに車へ押し込められた千夏は、一応きちんとシートベルトをして初見をにらんだ。

「土倉さん、日曜日は用事があるって言ってたよね? 樹生の店でナニするつもりだったのかな」

「それは……初見さんには関係ありません」

「関係ある。アンタと俺は付き合ってんだから」

突如として低くなった声音に千夏は息を呑んだ。少しだけ開いている車窓から吹き込む風でダークブラウンの髪の毛がサラサラと揺れている。

「……ネコかぶってたんですか」

「お互い様。アンタだって会社じゃ散々なんだろ。新人泣かせの異名は知れてるぞ」

千夏は下唇を噛んで初見をにらむ。いっぽうの彼は微笑したまま高速道路の料金所を通過している。

(どこに行くつもりなんだろ……。どうせ聞いても教えてくれないんだろうけど)

降ろしてと言ったところで高速道路の真ん中で放り出されても困る。千夏はふうっとわざとらしくため息をついた。
しばらく無言のまま小一時間が過ぎ、ようやく一般道に入ったと思ったらアップダウンの激しい山道だった。真っ黒な高級車がこんな山のなかを走っているのは何だか違和感がある。

「着いたぞ。降りろ」

山頂らしき場所に到着すると、初見はわざわざ助手席側のドアを開けて降りるようにうながした。

(崖から突き落とされたりしないわよね)

千夏は初見のことが信用ならなくなっていた。言っていることは無茶苦茶だし、とにかく強引だ。警戒しながら薄暗い駐車場を歩く。

「わ……綺麗」

眼下に広がっているのは光の洪水。山あいを流れる川のような夜景は美しく、目を奪われた。

「お気に召しましたか、お嬢さん」

初見は柵に片ひじをついて微笑しながらこちらを見ている。射るような視線が気になって、千夏は夜景から目を逸らした。

「結婚を前提にって、本気なんですか」

「ああ、大真面目だよ」

「何で……私? 初見さん、モテるでしょ」

初見はいっそうニイッと口角を上げた。先ほどの千夏の言葉を肯定しているようにも見える。

「結婚するなら、遊んでる女より純潔のほうがいい。アンタなら浮気の心配もなさそうだし。ちなみに俺も浮気はしない。もう懲りてるから。だから俺と結婚しろ」

美しい夜景に感動しているこの状況はプロポーズとしては最良なのかもしれない。けれど結婚の理由があまりにも雑だ。要するに彼は、浮気をしそうにない処女なら誰でもいいのだ。

「お断りします」

すぐにでもその場を立ち去りたかったが、まずはタクシーを呼ばなくては。こんな山のなかではいまから電話してもすぐにはきてくれない。

「そんなにハッキリ言われるとさすがにこたえるな」

携帯電話を取り出そうとハンドバッグのなかを漁っていると、急に視界が揺れてあやうくバッグを落とすところだった。

「な、に、するんですか……っ!」

身体を柵に押し付けられ、このままでは突き落とされかねない格好だ。悪い予感が的中してしまい、千夏の心臓はうるさく動悸を始めた。

「俺と結婚しろ。嫌とは言わせない」

「……っ」

恐怖のあまり言葉を発せないでいると、身体の角度がさらにグンッとかたむいた。

(本当に、落とされる……!)

もうダメだ、そう思ってぎゅうっと目を閉じると、身体が宙に浮くような感覚がした。いよいよ崖の下に真っ逆さまなのかと覚悟する。崖と言っても下には木々が生い茂っていたから、ヘタをしなければ怪我で済むはずだ。

(でも、もし打ち所が悪かったら……)

最悪の事態を想像して、震え上がる。

「俺と結婚するより死ぬほうがいいのか、アンタは」

あきれ返ったような声が頭上から聞こえてきた。
抱き締められたまま呆然としていると、両頬をつかまれて視線を固定させられた。
そこからはスローモーションで初見の顔が近づいてきた。のがれようと思えばできたはずなのに、先ほどの恐怖体験のせいか動けなくて、そのまま唇を塞がれた。
ずいぶんと長いこと唇を合わせていたような気がする。舌が割り入ってきたところでようやく我に返る。

「っ、私たちお友達なんですよね。何でこんなことするんですか」

力いっぱいに彼の胸を押しのけ威嚇する。彼にしてみれば年下の女ににらまれたくらいどうどいうことはないのかもしれないが。

「奥手そうなアンタに合わせただけだ」

「だったらそのまま合わせて下さい」

「……樹生とはどういう関係だ?」

脈絡のない話を振られて千夏は眉間にシワを寄せた。初見がこんなにひとの話を聞かない男だとは思わなかった。

「ひとの話、ちゃんと聞いてます?」

「聞いている。で、どうなんだ」

「別に……樹生くんとはなにもありません」

「アイツのことは名前で呼んでるのか」

「名前しか知らなかったから、です」

「ふうん」と言いながら初見は千夏の首筋を指でたどった。触れるか触れないかの距離だから、とてもくすぐったい。

「さわらないでください」

「今日はずいぶんと若作りだな。樹生に合わせたのか? 4歳くらいは若く見える」

彼の手を制してつかんだつもりだったのに、逆に押さえ込まれてしまい千夏はその手を払うべくブンブンと振り回した。

「暴れるな、余計に犯したくなるだろ」

「っな、犯……っ!?」

「いまここで抱いてやろうか。いい思い出になるぞ」

「なるわけないでしょ……っ。ちょ、嫌だったら! ……っゃ、や」

胸もとが開いたワンピースを着たのは間違いだった。ふくらみの上部をフニフニと指で押され、千夏はあとずさりしようとしたのだが、柵が邪魔で動けない。むしろこれ以上、うしろへ行ってしまったら本当に命がない。

「相変わらずかたくなだな。どういうふうに籠絡しようかって考えると、ゾクゾクするよ」

つかんでいた千夏の手を舐め上げ、初見は不敵に笑った。その仕草に、嫌悪からかゾクリと四肢が痺れた。

「そうだ、こうしよう。アンタが欲しがるまで、処女を保証する」

「は……?」

「どうせすぐに音を上げると思うがな。どんなふうにねだられるのか、楽しみだ」

「たいした自信ですね、反吐が出ます」

千夏は精一杯の笑顔を作って彼を見上げた。少しでも余裕があるふりをしたかった。
虚勢を見破っているのか、初見はフンと鼻で笑って千夏から離れ、身をひるがえした。

「帰るぞ、冷えてきた。早く乗れ」

仕事の時とは口調まで違うから、調子が狂う。けれど無愛想でぶっきらぼうないまのほうがよっぽど人間らしく感じるから、不思議だった。

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