ロストヴァージンまでの十日間 《 第十四話 袋のネズミ

初見のオフィスに赴いていた千夏は通された応接間で憤然と彼を待っていた。すぐにやってきた初見を侮蔑的な眼差しで見つめる。

「どうした、ずいぶんとご機嫌ナナメみたいだが」

「あの! 勝手に婚約者だとふれまわるのやめてください、私は」

「ああ、そのことか。もう決定事項なんだから議論の余地はない。それより仕事の話だ」

強引に話題を変えられ不満だったけれど、さっさと終わらせて帰りたいという思いもある。そのまま仕事の話を進めていると、初見は直球でどんどん要求を投げ込んでくるから辟易した。

「ちょっとは遠慮してくださいよ、初見社長。こちらの立場だってあるんですから」

「身内に遠慮する必要なんかない。アンタの立場は手前でどうにかしろ。まあすぐに産休を取るか、もしくは辞めることになるだろうから、そう保身に走らなくてもいいだろ」

「はぁぁ!?」

おもわず大人げのない怒声を上げてしまうと、はす向かいのソファに座っていた初見の腕が伸びてきて口もとを塞いだ。

「おい、非常識な声を出すな。外に聞こえるだろ。それとも、もっと非常識な喘ぎ声でも出させてやろうか」

「ふ、ぐ……っ」

さらに大きな声で叫んでやろうと思ったけれど、口のなかに指を挿し入れられて舌をつかまれたから、うめき声しか出せなかった。

千夏は初見の腕を叩くように払ったあと、口もとを手で押さえて呼吸を整えた。

「……わかりました。何とかしますっ、失礼します!」

この男なら本当になにか淫らなことをしかねないと危機感を覚え、素早く書類をまとめてバッグに押し込んだ。
すっくと立ち上がり部屋を出ようとしていると、うしろから力強くひじをつかまれて、書類の詰まった重いバッグを落としそうになる。

「今度の土曜日、10時にアンタの家へ行くから、出かける準備をして待ってろ。服装はフォーマルで」

「っな、私の都合も聞かずにそんな……っふ!」

振り向きざまに頭をわしづかみにされ、あらがう間もなく重なる唇。
何て自分勝手な男。
憤りを感じているからか、吐息が熱くなって頭がクラクラしてきた。舌を追いまわされているうちに四肢から力が抜けていく。腰もとを支える彼の腕がなかったら崩れ落ちてしまいそうだっだ。

「……返事は」

細められた目には有無を言わさぬ威圧感があって、気がつくと千夏は首を縦に振っていた。

「このあとに会議が入ってるから送れない。気をつけて帰れよ」

何たってこの男はふとした時に気遣わしい言葉を口にするんだろう。強引なのに優しさが垣間見えて、憤りをかき消してしまう。
もういちど小さく「失礼します」と言って千夏は応接室を出た。

***

迎えにくると言われた土曜日、千夏は予定時間ぎりぎりまで服を選んでいた。もともとあまり衣装持ちではないから『フォーマルで』などと指定されると本当に困る。
あたりさわりのない地味なスーツタイプの服を着て定刻の5分前に外へ出ると、10時を少し過ぎたところで彼は顔を出した。

「おはよう。乗ってくれ」

黒いセダンは陽光に輝いている。汚れが目立つ色なのに彼の車はいつ見ても艶やかでピカピカだ。彼は本当にマメだ。食事作り以外は。

「……どこに行くか聞かないのか?」

「どうせ聞いても教えてくれないんでしょう」

そっぽを向いて窓の外を眺めていると、クスッと笑い声がしたので千夏は初見のほうを振り向いた。

「俺の扱いに慣れてきたようだな」

初見は正面を向いたまま柔らかくほほえんでいる。昇り切らない太陽の日射しが彼の顔と髪の毛を照らしていて、まばゆかった。
それから連れて行かれた場所で千夏は身を固くしていた。初見の実家ではあの母親に加え厳格そうな父親にも対面し、緊張で寿命が縮む思いだった。

「それにしても、本当にお似合いの二人ね。初見さんは素敵すぎて、千夏にはもったいないくらいだわ」

初見の実家に先に訪れていた母親が嬉々として言った。それに応えて初見の母親も口をひらく。

「いえいえ、それは私たちのほうですわ、ねえあなた」

うんざりするような社交辞令ばかりが飛び交う席で、千夏はなかば自暴自棄になりながら作り笑いを取りつくろった。

「どうした、ひどく疲れた顔をしてるな」

「そりゃそうですよ! いきなり実家に連れて行かれて……。しかも、うちの母まで呼んでたなんて、根まわしがよすぎて尊敬します」

嫌みたらしく言い散らす。初見の実家を出た千夏は車に乗り込むなり大きく息を吐いてこうべを垂れていた。初見の母親が用意してくれた昼食は失礼のないようにと思ってすべて平らげたけれど、味どころではなかった。

「おかげで結納の日取りを決めることができた」

「だから、私は……」

「もうあきらめろ。アンタは袋のネズミだ。それに、嫌なら俺の両親に失礼な態度でも取ればよかっただろうに」

「母の手前もあるし、そんなことできません」

「アンタのそういう真面目なところ、俺は好きだ。時間どおりにくるし、俺を待たせないようにいつも努力してくれる。今日も、マンション前まで出てくれていたな」

「そんなの……普通でしょ」

「千夏にとってはそうかもしれないが、俺にとっては嬉しいことだしきみの美徳だと思う」

彼のほうを見るのをやめて、千夏はうつむいた。トクン、トクンと高鳴る心臓が全身を揺らしているようだった。

「今日はやけに褒めちぎるんですね。それに、名前……」

「名前で呼ばれるのは気に食わないか?」

「違います、けど……。急に呼ばれたら、驚きます」

「そうか」と短く言って、初見はふたたび今朝のようにほほえんだ。
打ち解けている。そう形容するのがもっとも正しい表現だ。心を許し始めているのは千夏だけではなく、きっと彼もそうなのだと思う。

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