ロストヴァージンまでの十日間 《 第二十話 因果応報

樹生の居酒屋を出て結花と別れた数時間後だった。珍しく夜に母親から電話があった。お風呂で濡れた髪の毛をバスタオルで拭きながら話す。

「どうしたの、夜にかけてくるなんて珍しいね」

「あのね千夏、さっきね、初見さんのお母さんから電話があって――」

それから千夏はろくにあいづちも打たずにただ黙って聞いていた。
耳から入ってくる母親の言葉は頭のなかをすり抜けていく。

(婚約、破棄……?)

たった四文字の言葉を理解できない。単純なことなのに。

「初見さんのお母さんが言うには、あなたが会社では素行がよくないっていう話を、信頼できるひとから聞いたらしいんだけど……本当なの?」

心当たりなら山ほどある。新人への口厳しさが社内で有名になっているのは知っている。

(ああ、そっか。天に唾を吐いてきた結果がこれなんだ)

「うん、本当だよ。ごめんね、お母さん」

「……なにか理由があるんでしょう? それに、私に謝ることないわ」

理由?そんなものあるのだろうか。仕事ができなくて当たり前の新人につらく当たっていたのは、単なる憂さ晴らしかもしれない。
自分は何て心の狭い人間なんだろう。いまさら自覚して、落胆する。やっぱり、こんな自分では彼には釣り合わないのだ。

「理由なんてないよ。とにかく、ごめん。私、もう寝るから……おやすみ」

まだなにか言いたげな母親を無視して、千夏は電話を切った。
濡れた髪のままベッドに大の字になる。

(初見さんと……結婚、できない)

実感すると、自然と涙があふれた。少し前まで彼との結婚なんて望んでいなかったはずなのに、いざできないとなると泣いてしまうなんて、自分勝手もはなはだしい。
けれどあきらめきれないのも事実で、千夏は震える手で携帯電話をふたたび手に取った。

(……つながらない)

勇気を振り絞って初見に電話をかけた。機械音声が、電波が届かないところに彼はいると告げる。

(届かない……)

電話はつながらない。気持ちは届かない。届かないところに、彼はいる。

「う……っく、うう」

泣いた。声を出して泣いたのは久しぶりだった。最近はなにかに執着することなんてなかったし、なにかに感動するなんてこともなかった。鈍くなっていたのだ。傷つかないように、自分自身を守るために。

(こんなことなら、さっさと抱いてもらえばよかった)

そう思った自分をすぐに恥じて、さらに落ち込む。

(……会いたい)

募る想いに蓋をするようにベッドにうつ伏せになって、あふれる涙を枕でせき止めた。

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