ロストヴァージンまでの十日間 《 第二十一話 甘く爽やかな見舞品

婚約破棄になった翌日、何の変哲もない月曜日。千夏は熱を出して会社を休んだ。

(なにやってんだろ、私……。髪の毛、ちゃんと乾かさなかったからかな)

彼との思い出が蘇る。あたたかい思い出のはずなのに、いまは彼のことを考えるだけで苦しい。

(寝よう……早く治さなきゃ。明日は絶対に出勤する)

違う。本当は熱なんてたいしたことない。心のダメージのほうが大きいのに、千夏はそれに気づかぬふりをして布団を頭までかぶった。

玄関チャイムの連打音が、千夏を眠りから呼び覚ます。起き上がるのはだるいから無視していたのに、まるで借金取りのごとく押し鳴らされる呼び出し音にうんざりして千夏はベッドから出た。

「……はい」

インターホンには画面がないから顔は映らない。扉の向こうの人物は名乗りもせずに千夏の名前を呼んだ。
愛しいひとの声を、一日足らずで忘れるはずもない。

『風邪で寝込んでると聞いて、見舞いにきた』

「……大丈夫、です。たいしたことないですから」

電話とはまた違う。鉄扉一枚をはさんでその向こう側に初見がいると思うだけで、急に心臓が強く鼓動し始める。

『そうか。……なかに、入れてくれ。話したいことがある』

逃げ出したかった。別れ話なんて聞きたくない。でも、最後に自分の気持ちを伝えておきたいとも思う。
千夏は深呼吸をして玄関へ向かい、やけに重く感じる玄関扉をそっと開けた。

初見のスーツのジャケットは肩のところが少し濡れていた。外が雨だということに初めて気がつく。仕事中に抜け出してきたのか、ネクタイはきちんと結ばれている。

「お仕事、大丈夫ですか? 戻られたほうがいいんじゃないですか」

「気にするな。特に咎められたりはしないし、必要な時は社から電話がかかってくるだろう。いまほど上司がいなくてよかったと思う瞬間はないな」

冗談めいたふうに笑って、初見は千夏の肩を片手で押して部屋のなかへ入ってきた。もう片方の手には紙袋を下げていて、彼が大股で歩くと紙袋の中身がこすれる音がした。

「昨晩、電話をくれただろ? あのときはゴルフ場からの帰り道で山のなかだったから、電波が悪くて出られなかったんだが、あとでかけ直してもつながらないから心配した」

「……すみません、ずっと寝てたので」

「具合、悪いんだったな……。俺にかまわず寝てろ」

そのまま寝室へ入り、ベッドに寝るよううながされる。横になる気にはなれなくて、ベッドに腰かけた格好のまま下半身だけに布団をかけた。

「ゼリーを買ってきたんだが、食うか?」

初見は紙袋から鮮やかなオレンジ色の小瓶を取り出した。瓶に閉じ込められたゼリーには蜜柑の果肉が埋まっている。

「あ……じゃあ、なにか器に出しましょうか。初見さんも食べるでしょ?」

「待て待て、起きなくていい。病人は寝てろ。それに俺は体裁はあまり気にしない。千夏が瓶ごと食うのが嫌でなければ、そのままで」

初見はそう言ってプラスチックのスプーンでゼリーをすくい、千夏の口もとに運んだ。自分で食べます、と言う暇もないから口をひらく。

「……おいしいです。コンビニ以外のゼリーは、久しぶり」

「そうか、よかった。うまいと評判の店の物なんだ」

次から次に口もとへ運ばれる甘く爽やかなゼリー。食べさせてもらうなんて恥ずかしかったけれど、おいしさのあまりされるがまま夢中で食べ進めた。

小瓶のゼリーが半分ほどになったところで、初見は手をやすめた。

「千夏、母さんから聞いてるかもしれないが――」

(きた、本題……!)

のどを通るゼリーが急に重たくなった気がした。千夏はつい、彼の言葉をさえぎる。

「初見さんっ、私を抱いてください!」

ひといきに言ってしまって、しかしすぐに自分の言葉を疑った。

(私、何て言った? 違うのに、初見さんのこと好きになってましたって、そう言いたかったのに)

「あ、の、違うんです。その、私が言いたいのは……っ」

自分の両手を見つめていると、カタンと物音がした。初見は食べかけのゼリーをベッド脇の机に置いたようだった。

「……いいんだな」

静かな、低い声。あらためて問うというよりも、念を押しているような声音。
彼に抱かれたい。それは本心だ。千夏はゆっくりと、でも確実に伝わるよう大きくうなずいた。

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