ロストヴァージンまでの十日間 《 第二十四話 攻防

夕方になってふたたび千夏の部屋を訪れた初見を、千夏は重い足取りでリビングへ通した。

「風邪は本当に治ったのか? まだ顔色が優れないようだが」

「熱は下がってるし、ほかになにも症状はありません。それに、さんざん寝てたからまったく眠くないんです」

冷蔵庫から麦茶を取り出し、コップにそそぐ。普通にしていようと心がけていた甲斐あって、いまのところ取り乱したりはしていない。上出来だと思う。
ソファに座る初見にお茶を出し、千夏はカーペットのうえに正座した。話を聞く準備は整った。初見もそれを感じたのか、お茶をひとくちだけすすって話し始めた。

「結論から言う。俺は婚約破棄なんて微塵も考えていない」

言葉の意味を考えるのにしばし時間を要した。どう考えても千夏にとっては嬉しい言葉。けれど、多くの疑問が浮かんでくる。

「あの、でも……初見さんのお母さんは反対なさってるんでしょう?」

「だから何だって言うんだ」

「……私は、反対されるような結婚はできません」

そもそも自分のせいで初見の母親に婚約破棄を宣言されてしまったというのに、滑稽だ。どこか客観的にそう思った。
彼と結婚できるならば本望だけれど、自信がない。初見を幸せにできるひとはほかにいるんじゃないかと思ってしまう。誰もが認め、誰からも祝福されるふさわしい相手が。

初見は目を伏せて、ふうっと長く息を吐いた。それから、なにかを決意したかのように見つめられ、少し気圧されてしまった。

「そう言うと思った。……千夏、本当に体調はもういいのか」

「はい、平気です」

「ではいまから俺の実家へ行くぞ。母さんと直接、話す」

「え……!?」

「外で待ってる。支度ができしだい、こい」

グイッといっきに麦茶を飲み干して、初見はソファから立ち上がった。そしてそのままスタスタと家を出て行ってしまった。

(もう、強引なんだから……っ)

待たせては悪いから、急いで支度する。薄く化粧をして、無難な服を着て玄関を出ると、腕組みをして壁にもたれかかっていた初見は「早かったな」とだけ言って歩き始めた。

彼の実家に着き、初見の母親と顔を合わせた瞬間、ふたたび熱が出てきたんじゃないかと思ってしまった。
通された座敷に正座する千夏に、初見の母親は仇でも見るような視線を寄越してくる。

「もうあなたとお話しすることはありませんわ」

結納の日取りを決めたときとはずいぶんと態度が違う。千夏の母親がいないからか、つっけんどんにそう言ってそっぽを向いた。そんな態度は何だか子どもっぽくも見える。

「母さん、誰になにを吹き込まれたか知らないけど、千夏は母さんが思ってるような女性ではない」

「あら、そうかしら? 会社では新人をいじめ散らしているそうじゃない」

千夏はうつむいた。事実なのだから否定しようがない。初見の母親のお説教とも取れる直接的な悪口を押し黙ったまま聞いていると、ダンッと大きな音がして、千夏は驚いて顔を上げた。

大きな音は初見が机を叩いた音だった。その表情はいつもと変わらない。けれど声音は低く、

「なにも知らないくせに勝手なことを言うなよ、母さん。千夏が物事をハッキリ言うのは相手のためを思ってのことなんだ。それは、彼女なりの愛情表現なんだよ。それに、千夏に泣かされた社員はみんな立派に仕事をこなせるようになってる。俺も何人か取引があるからわかるけど、彼女の口厳しい指導のおかげだよ」

千夏は新人を厳しく指導する。相手が折れそうになったら、結花がフォローする。いつもそんなパターンだった。嫌われ役を買って出ていたつもりはないけれど、まさか社外の人間である初見がそれを理解していたなんて驚きだった。

(わかって、くれてたんだ……)

そう思うと勝手に涙腺が熱くなって、人前だというのにボロボロと涙がこぼれ落ちる。

「……千夏!? どうしたんだ」

「あ……の、私……初見さんと、結婚したいです。本当に」

鼻をすすりながら言った。それでも鼻水を押さえられないでいると、どこから持ってきたのか初見の母親がティッシュを箱ごと千夏の前に差し出した。

「でもねえ……もうほかのかたにお見合いを申し込んでしまったのよ」

少し申しわけのなさそうな調子で言われ、余計に涙があふれた。もう、手遅れなのだろうか。
どうしたって結婚を了承してもらえない――……?

「ほかの女性と見合いなんてしない。母さんは会いたくないのか? 可愛い孫に」

千夏の腹部にそっと手を当て、初見は優しげな視線を向けてきた。彼の思わぬ行動に、目を丸くする。

「あら……あらあら! なあに、そういうことなら早く言ってちょうだいよ! それなら、結納の日取りを早めなくちゃ。ええと、カレンダーは……っ」

急に態度をひるがえした初見の母親は嬉々とした表情で部屋を出て行った。卓上カレンダーでも探しに行ったのだろうか。

「……初見さん」

にらみ上げると、彼は両の手のひらを天に向けて首をかしげた。

「俺はなにも言ってない。子どもができた、なんて言ってないぞ」

「でも、初見さんのお母さんは勘違いしてますよっ」

「とにかく入籍さえしてしまえばこちらのものだ。あとはどうとでもなる。さ、帰るぞ。よけいな詮索をされる前に」

初見は千夏の手を引き、「仕事が入ったから今日は帰る」と大声で叫んで部屋を出た。見送りに戻ってきた初見の母親はブランケットを持っている。

「お腹が冷えないようにかけておきなさい」

「……はい、ありがとうございます」

初夏だというのに暑苦しいことこのうえないが、車に乗った千夏は彼の母親が見えなくなるまでお腹にモコモコの毛布をかけていた。

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