伯爵は肉欲旺盛なお医者さま 《 第一章 06

「……診察室と寝室の掃除もきみに任せる。俺がいないときでもかまわない」
「っ、え」
「なんだ、不服か? きみはいつも仕事を欲しがっていただろう」

 ジェラルドは羽根ペンを机の角に置きエリスを振り返った。
 その一瞬、雲が晴れたのは偶然だろう。窓から差し込む陽光が、明るい表情になっているエリスをいっそう輝かせる。

「かしこまりました!」

 にこやかにほほえむエリスをジェラルドは黙って見つめていた。惚けているようにも見える。

「そ、それと……明日から毎朝、俺を起こしに来てくれ。ここのところどうも朝が弱い」
「はい」

 自然と声が弾む。仕事が掃除であることには変わりないけれど、範囲が広がったのは大きな進歩だ。
 ジェラルドはおもむろに引き出しを開け、鍵の束をエリスに手渡した。鍵のモチーフを説明する。

「ここの鍵は羽根、診察室は薔薇、寝室は熊だ」
「熊……ですか」

 それは確かに熊の形をした鍵だった。執務室の鍵が羽根なのはわかる。羽根ペンを模しているのだろう。診察室の鍵が白い薔薇なのは、庭に白薔薇が咲いていて診察室から垣間見えるからだ。しかし寝室の鍵が熊であることの理由はいくら考えてもわからなかった。

「あの、寝室の鍵はなぜ熊なのでしょう?」
「知らん。父親の代からそうだ」

 何だか最近はやけに熊に縁がある。

「そうですか。いえ、隣の図書館のカウンターにも熊の銅像があったので……。ご主人様は熊がお好きなのかと思いました」
「ああ、あれか……。兄さんに押し付けられたんだ。邪魔だから要らないと断ったら兄さんが勝手に図書館に置いていった。願いが叶うとか何とか言っていたな。まったく、馬鹿馬鹿しい」

 ジェラルドは「ふう」と疲れきった様子で長く息を吐いた。

(あの熊の銅像、願掛けをするためのものなの?)

 今度、図書館を訪ねたときにはこっそり願い事を言ってみよう。
 エリスは鍵を束ねるリングを持つ手にぎゅうっと力を込めた。


 鍵束を預かった翌朝、エリスはやや緊張した面持ちでジェラルドの寝室を訪ねた。一応ノックをして中の様子をうかがう。返事はやはりない。

(起こしに来たのだから、当然だけど)

 もしも彼が起床していたら早々にお役御免だったが、まだ寝ているのだろう。熊の形をした鍵を使って寝室の扉を開ける。
 寝室は広かった。家具らしきものがほとんどないのでよけいにそう感じる。むしろこれは本当に寝るためだけの部屋だ。
 キングサイズのベッドへ忍び足で近づく。

(いやいや、忍び足である必要なんてないじゃない)

 もっとも、カーペットはふかふかなので靴音はまったくといっていいほど響かないが。
 エリスはすうっと息を吸い込む。

「ご主人様。ご起床のお時間です」

 声を張り上げてそう告げても、我が主人《あるじ》は無反応だった。

「ねえ、起きてください」

 横たわるジェラルドの肩を掛け布ごとつかんで豪快に揺らす。これで起きなければ意識を失っていると思ったほうがいいかもしれない。
 長いまつ毛がピクンと震えた。翡翠色の瞳がわずかにまみえる。弓なりの眉が不愉快そうに歪んだ。エリスはジェラルドの顔をのぞき込む。

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