「きみは有用だからな。その貧弱な胸をのぞけば」
「――っ」
つかんでいた紙片がグシャリと潰れて原形をなくす。エリスは紙片を握り込んだままバッと勢いよく顔を上げた。
「先生と結婚するなんて絶対にイヤです! だってそうしたらずっと働かなくちゃいけない。先生は私を体良くコキ使うつもりなんでしょう」
顔を上げたエリスの目からはぼろぼろと涙がこぼれ落ちていた。
一瞬、本気にしてしまった。けれどからかわれているだけだとわかって、悔しさで涙腺が熱くなってしまった。
(人のこと、何だと思ってるの!?)
涙があふれて止まらない。どれだけ体を重ねていても所詮は主人とメイド。この身分の差は縮まらないし、まして心も通じ合っていない。
エリスは虚しさで胸がいっぱいになった。ますます涙が止まらず、嗚咽まじりに泣きじゃくる。
「……休暇をやる。ただし一週間だ」
見かねた様子でジェラルドが言った。その表情は硬く、涙でぼやけた視界ではいつにも増して冷淡に見えた。
一週間の暇を与えられたエリスは久方ぶりに実家へ帰省した。伯爵邸からは馬車で一時間ほどの、山に囲まれた小さな集落がエリスの故郷だ。建築用の木材を山から採取し出荷することが主産業の、小さな町。
「あらぁ、エリスちゃん! 久しぶりねぇ。いつ帰って来たの?」
「エマおばさん、こんにちは。お久しぶりです。ついさっきですよ。一週間ほどお休みをもらいまして」
恰幅のよい中年の女性は「そうなの」と言ってにこやかに笑った。山間《やまあい》の小さな町だ。ほとんどの住人と顔見知りである。
エリスはおばさんに「じゃあまた」と挨拶をしてふたたび町を歩く。通りはそう広くはなく、日用品店や喫茶店がポツリポツリと並んでいる。これでもここが町のメインストリートだ。
およそ二年ぶりに帰ってきたホームタウンは以前と何ら変わりない。
(私、は……変わったわ。あのころとは随分と)
かつては身も心も純真だった。いつか素敵な人と運命の出会いをして劇的な恋に落ちることを夢に見たりもしていた。
いまはどうだ。結婚に対して打算しか見出せないのが悲しい。どこぞの鬼畜医者のせいで現実的なことしか考えられなくなってしまったことが我ながら不憫だ。
「――エリス!」
聞き覚えのある声に呼び止められた。声がしたほう――喫茶店のテラスへ目を向ける。
「アゼル! 久しぶりね」
「いつ帰って来たんだ? ちょっとコッチにこいよ」
「うん」
赤茶色の髪の青年に手招きをされたエリスは短い階段を上って喫茶店の中へ入った。テラスへ出るにはいったん店の中へ入る必要がある。
「どこのべっぴんかと思ったらエリスじゃねえか。母親に似てきたな」
「おお、エリス。久しぶり」
店ではまだ昼間だというのに酒を煽っている中年の男性が何人かいた。この町の木こりだ。口々に話しかけてくる。
「領主様のとこに働きに行ったんじゃなかったかー? おてんばすぎてクビになったか」
「違います、一週間だけの休暇です。みなさん、飲みすぎちゃダメですよ」
「へーへー」
気のない返事をする木こりたちを横目に味のあるくすんだ木壁の店内を横切り、開け放しの扉をくぐってテラスへ出る。
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「――っ」
つかんでいた紙片がグシャリと潰れて原形をなくす。エリスは紙片を握り込んだままバッと勢いよく顔を上げた。
「先生と結婚するなんて絶対にイヤです! だってそうしたらずっと働かなくちゃいけない。先生は私を体良くコキ使うつもりなんでしょう」
顔を上げたエリスの目からはぼろぼろと涙がこぼれ落ちていた。
一瞬、本気にしてしまった。けれどからかわれているだけだとわかって、悔しさで涙腺が熱くなってしまった。
(人のこと、何だと思ってるの!?)
涙があふれて止まらない。どれだけ体を重ねていても所詮は主人とメイド。この身分の差は縮まらないし、まして心も通じ合っていない。
エリスは虚しさで胸がいっぱいになった。ますます涙が止まらず、嗚咽まじりに泣きじゃくる。
「……休暇をやる。ただし一週間だ」
見かねた様子でジェラルドが言った。その表情は硬く、涙でぼやけた視界ではいつにも増して冷淡に見えた。
一週間の暇を与えられたエリスは久方ぶりに実家へ帰省した。伯爵邸からは馬車で一時間ほどの、山に囲まれた小さな集落がエリスの故郷だ。建築用の木材を山から採取し出荷することが主産業の、小さな町。
「あらぁ、エリスちゃん! 久しぶりねぇ。いつ帰って来たの?」
「エマおばさん、こんにちは。お久しぶりです。ついさっきですよ。一週間ほどお休みをもらいまして」
恰幅のよい中年の女性は「そうなの」と言ってにこやかに笑った。山間《やまあい》の小さな町だ。ほとんどの住人と顔見知りである。
エリスはおばさんに「じゃあまた」と挨拶をしてふたたび町を歩く。通りはそう広くはなく、日用品店や喫茶店がポツリポツリと並んでいる。これでもここが町のメインストリートだ。
およそ二年ぶりに帰ってきたホームタウンは以前と何ら変わりない。
(私、は……変わったわ。あのころとは随分と)
かつては身も心も純真だった。いつか素敵な人と運命の出会いをして劇的な恋に落ちることを夢に見たりもしていた。
いまはどうだ。結婚に対して打算しか見出せないのが悲しい。どこぞの鬼畜医者のせいで現実的なことしか考えられなくなってしまったことが我ながら不憫だ。
「――エリス!」
聞き覚えのある声に呼び止められた。声がしたほう――喫茶店のテラスへ目を向ける。
「アゼル! 久しぶりね」
「いつ帰って来たんだ? ちょっとコッチにこいよ」
「うん」
赤茶色の髪の青年に手招きをされたエリスは短い階段を上って喫茶店の中へ入った。テラスへ出るにはいったん店の中へ入る必要がある。
「どこのべっぴんかと思ったらエリスじゃねえか。母親に似てきたな」
「おお、エリス。久しぶり」
店ではまだ昼間だというのに酒を煽っている中年の男性が何人かいた。この町の木こりだ。口々に話しかけてくる。
「領主様のとこに働きに行ったんじゃなかったかー? おてんばすぎてクビになったか」
「違います、一週間だけの休暇です。みなさん、飲みすぎちゃダメですよ」
「へーへー」
気のない返事をする木こりたちを横目に味のあるくすんだ木壁の店内を横切り、開け放しの扉をくぐってテラスへ出る。