伯爵は肉欲旺盛なお医者さま 《 第三章 02

(これは……動かさないほうがいいわよね)

 机の上はひどい有り様だった。執務の途中だったようだから無理もないが、あらゆる蓋と引き出しが開けっぱなしだ。

(……ん? これ――)

 執務机の角に置いてある瀟洒《しょうしゃ》な小箱の蓋が開いていることに気がつく。この箱だけ用途が不明だったからじつのところ前から気になっていた。勝手に開けてはいけないと思い気にしないようにしていたが、いまは勝手に蓋が開いている。中身をのぞくぐらい許されるだろう。

(まさか香油じゃないわよね。そうなら俄然、似合わない)

 ジェラルドが香油を肌に塗り込んでいるさまを思い浮かべると妙に笑えてくる。彼は麗しいが身だしなみにはそれほど敏感ではない。髪の毛が整えられているのを見たことがない。忙しくてそれどころではないというのもあるのだろうけれど。それでもさまになるのはやはり元がいいせい、というのが若干癪ではある。
 エリスはにわかに心を弾ませて小箱の中をのぞいた。

(……紙切れ?)

 中には紙の束が納められていた。見覚えがある。

(私が残した伝言じゃない)

 紙束は分厚い。かなり昔の物も含まれているようだ。

(なんでわざわざこんなオシャレな箱に……)

 エリスはハッと気がつく。
 ジェラルドは手紙が欲しいのだ。彼には文を交わすような友達がいないのだろう。あの性格ならばそれもうなずける。少し不憫だ。

(だからってこんな紙切れ、とっておくことないのに)

 値が張りそうな小箱をじいっと見つめる。

「………」

 彼が私の手紙を保管していることの、意味。

(――っ、早く掃除をしなくちゃ)

 エリスは考えるのをやめて掃除に没頭した。
 無謀な期待をして、裏切られるのが怖かった。


「――応援、ですか」

 そう尋ね返して彼の顔を見上げると、ジェラルドは真冬の雪雲のごとく寒々しくどんよりとした面持ちをしていた。エリスとジェラルドは執務机を挟んで相対している。

「ああ、そうだ。看護助手が足りないそうだ。募集はかけているらしいが、ひとまず即戦力になる人員が欲しいと言われた」

 はあっ、と盛大にため息をつきジェラルドは執務椅子に背を預けた。その眉間は不機嫌をあらわにしている。

「ミルズ先生にはこっちで対処しきれない患者を診てもらったりと、なにかと恩があるからな……断れない」

 ミルズ先生というのはジェラルドの医学生時代の恩師だ。いま彼は大病院の筆頭医師なのだという。その大きな病院で看護助手の急な欠員が立て続けに数人、出てしまい、人手が足りずジェラルドに――ひいてはエリスに声がかかった。

「まったく……。おそらく看護助手が集団で示し合わせて職を辞したんだろう。ミルズ先生は人使いが荒いからな」

 ジェラルドの言葉を聞き、エリスは突っ込まずにはいられない。

「それは先生も同じでしょう。私を辞めさせてもくれないぶん、ミルズ先生よりももっと鬼畜」
「きみは……よくもそうヌケヌケと悪言が吐けるな。少しは自粛したらどうだ」
「そのお言葉そっくりそのままお返しします」

 いつだって無遠慮に「貧乳」と馬鹿にしてくる男に「自粛しろ」と言われても素直に従えるはずがない。

「ふん……。とにかく、だ。明日からミルズ先生の病院へ応援に行ってくれ」
「かしこまりました」

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