伯爵は肉欲旺盛なお医者さま 《 第四章 06

 ジェラルドの気持ちを知った翌日は何だか妙に仕事がやりづらかった。加えて、「きみの代わりの看護助手を募集することにした」と朝一番に言われて反応に困ってしまう。

(そりゃ……結婚して仕事を辞めたいとは常々思っていたけど)

 しかしいざそうなるとかなり複雑だ。贅沢な悩みだとは思うが、複雑なのだ。
 まず第一に、仕事を辞めるということ自体に抵抗があった。いまさらだ。あんなに辞めたがっていた自分は何だったのだろうと思う。それでも、働いていない生活は退屈で仕方がないだろう。以前、一週間の休みをもらったときがそうだった。時間が進むスピードが変わってしまったのではないかと疑うほどに暇で、一日が過ぎていくのが遅く感じた。

(……私、わがままね)

 エリスは開診前の診察室で床にモップがけをしながら自嘲した。椅子に腰掛けてカルテを整理するジェラルドを盗み見る。
 仕事を辞めたくないもう一つの理由は、自分とは違う女性が彼の隣に立ち、ほとんど四六時中、行動をともにするということだ。
 まだ見ぬ新たな彼のビジネスパートナーに嫉妬するなんて、どうかしている。そうは思えどやるせない。

「……も、もし子どもができてお休みすることになっても、なるべく早く業務に復帰します」

 唐突に口を開いたエリスにジェラルドは不思議そうな視線を向ける。

「……? そうか」

 それだけを返し、ジェラルドはまた執務を始めた。


 エリスが勝手にライバル視をする新たな看護助手はすぐに見つかった。

「おふたりとも、よろしくお願いします」

 人好きのする笑みは善良さが全面に出ている。聞けば、まだ医学校に通っている身なのだという。
 ――新しい看護助手は男性だった。看護助手というよりも、医者見習いとしてここへ勤めに来るそうだ。
 互いに簡単な自己紹介を済ませたあと、エリスは新たな同僚――ヴィンセントに業務内容について教えることになった。指導とまではいかない。医学に関する知識はむしろ彼のほうが卓越していることだろう。なにせ現役の医学生だ。独学で学んだエリスよりも豊富な知識を持ち合わせていると思われる。だから、エリスが彼に教示するのは実務的なことだ。ジェラルドと看護助手の業務区分や、薬の補充についてを教えると、ヴィンセントはノートにメモを取りながら、時には問い返しながら習得していった。

「――エリスさんの説明は医学校のお固い先生たちと違ってすごくわかりやすいです」

 碧い目を細めてヴィンセントが笑う。診察室で薬棚の説明をしているときのことだった。
 ヴィンセントは見た目の通り人懐っこい性格で、エリスとすぐに打ち解けた。ジェラルドもまたヴィンセントにはいつもの毒舌を振るうこともなく、彼にしてはかなり好意的に接しているように見受けられる。
 ヴィンセントが医学校へ戻り、診察の後片付けをしていると、

「……エリス」

 大蛇が地を這うようなおぞましい響きを含んだ声が背後から聞こえた。

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