夫はマメなほうだ。自分の身のまわりのことには無頓着だけれど、忙しいのにもかかわらず子どもの世話はよくしてくれた。いや、はじめからそうだったわけではない。
(でも……なんだか子どもっぽいところもあるのよね)
杏樹は産婦人科の待合室で娘をひざのうえに乗せて、愛娘が産まれて数ヶ月が経ったころのことを思い出し、くすりと笑みをこぼした。
***
おぎゃあ、おぎゃあと泣くわが子の声は自分が眠っていてもどうしてかハッキリと聞こえる。
女の子を出産してはや3ヶ月、体調は完全にもとに戻ったけれど忙しさは増すばかりだ。
杏樹は「はいはーい」と小さな声でつぶやいてフットライトをつけ、ベッドから抜け出してベビーベッドへ歩み寄った。
真っ赤な顔で泣く娘のオムツをかえて、抱きあげる。それからベッド端に腰をおろして、乳首をくわえさせる。
「……晴杏、おっぱい飲み足りたかな」
となりで眠っていた晴翔も目を覚ましている。泣き声で起きたのだろう。
「うん。ごめんね、起こしちゃったね」
「べつにいいよ。……ねえ、俺にもおっぱいちょうだい」
「なに言ってるの、ダメに決まってるでしょ」
母乳を飲みながらふたたび眠ってしまった娘をそっとベビーベッドに寝かせながら杏樹は小さな声で言った。晴翔のいるベッドへ戻ると、夫は不満そうに口を尖らせていた。
「どうして晴杏はよくて、俺はダメなの。そんなの不公平だ」
「もう、バカなこと言わないで。早く寝よう? 晴くんは明日も仕事なんだし、私も眠い」
次の授乳にそなえていっこくも早く眠りたい。ただでさえ家事と育児で疲れ切っていて寝不足なのだ。
杏樹は話は終わりと言わんばかりに部屋を暗くして、彼に背を向け瞳を閉じた。
翌日、夫の様子がおかしかった。いつもなら診察の開始直前にしか起きてこないのに、どういうわけか早起きをして朝食を作っていた。目玉焼きにトースト、それからトマトサラダ。この単純なメニューをどうしたらこれほどマズく仕上げられるのか知りたくなったけれど、そこはあえて聞かなかった。
「えっと……。ありがとう、晴くん。助かったよ」
「ううん、これくらいどうってことないよ! 皿はそのままでいいよ。俺が洗うから」
「いや、でも……。そろそろ診察をはじめる時間でしょ?」
「まだ大丈夫。杏ちゃんは座ってて。ゆっくりテレビでも見てて。あっ、晴杏のオムツは俺がかえる。えーと……こうだっけ?」
リビングのお昼寝布団のうえに寝かせていた娘のオムツをかえようとしていると、晴翔が割り込んできた。手先は器用なはずなのに、モタモタしている。そのうちに晴杏が泣きはじめてしまい、
「ありがとう晴くん、でもあとは私がする」
晴翔の手をどけるようにしてオムツのテープをとめてロンパースのボタンを閉じる。すると晴翔は唇をへの字に曲げて、いまにも泣き出しそうな表情になった。
「ごめん、俺……ぜんぜん役に立たないね」
「そっ、そんなことないよ! ごはん作ってくれたじゃない」
「でもマズかった」
なんだ、自覚はあったのか。杏樹は目を泳がせて、フォローの言葉をさがす。
「それは……まあ、仕方ないよ。作り慣れてないんだし」
「杏ちゃんは……俺のこと、要らない?」
杏樹は娘を抱っこしながら「え」と短く言葉を発した。急になにを言い出すんだろう。
「だって、ぜんぜんかまってくれないし。……エッチもしてくれないし」
ははあ、そういうことか。杏樹はふうっと大きく息を吐き、
「そんなことない。晴くんは私にとってすごく大切な存在だよ。晴くんなしでは生きていけない。でも、晴杏も同じくらい大切」
「うん……」
晴翔は杏樹の額にコツンと肌を重ねながらあいづちを打った。眉尻をさげて目を伏せている。
「……ねえ、したい」
細長い指が杏樹の唇をたどる。晴翔の指は冷たかった。
「……今夜、ね」
杏樹は静かに返事をして、彼の指を唇でそっとはさんだ。
(でも……なんだか子どもっぽいところもあるのよね)
杏樹は産婦人科の待合室で娘をひざのうえに乗せて、愛娘が産まれて数ヶ月が経ったころのことを思い出し、くすりと笑みをこぼした。
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おぎゃあ、おぎゃあと泣くわが子の声は自分が眠っていてもどうしてかハッキリと聞こえる。
女の子を出産してはや3ヶ月、体調は完全にもとに戻ったけれど忙しさは増すばかりだ。
杏樹は「はいはーい」と小さな声でつぶやいてフットライトをつけ、ベッドから抜け出してベビーベッドへ歩み寄った。
真っ赤な顔で泣く娘のオムツをかえて、抱きあげる。それからベッド端に腰をおろして、乳首をくわえさせる。
「……晴杏、おっぱい飲み足りたかな」
となりで眠っていた晴翔も目を覚ましている。泣き声で起きたのだろう。
「うん。ごめんね、起こしちゃったね」
「べつにいいよ。……ねえ、俺にもおっぱいちょうだい」
「なに言ってるの、ダメに決まってるでしょ」
母乳を飲みながらふたたび眠ってしまった娘をそっとベビーベッドに寝かせながら杏樹は小さな声で言った。晴翔のいるベッドへ戻ると、夫は不満そうに口を尖らせていた。
「どうして晴杏はよくて、俺はダメなの。そんなの不公平だ」
「もう、バカなこと言わないで。早く寝よう? 晴くんは明日も仕事なんだし、私も眠い」
次の授乳にそなえていっこくも早く眠りたい。ただでさえ家事と育児で疲れ切っていて寝不足なのだ。
杏樹は話は終わりと言わんばかりに部屋を暗くして、彼に背を向け瞳を閉じた。
翌日、夫の様子がおかしかった。いつもなら診察の開始直前にしか起きてこないのに、どういうわけか早起きをして朝食を作っていた。目玉焼きにトースト、それからトマトサラダ。この単純なメニューをどうしたらこれほどマズく仕上げられるのか知りたくなったけれど、そこはあえて聞かなかった。
「えっと……。ありがとう、晴くん。助かったよ」
「ううん、これくらいどうってことないよ! 皿はそのままでいいよ。俺が洗うから」
「いや、でも……。そろそろ診察をはじめる時間でしょ?」
「まだ大丈夫。杏ちゃんは座ってて。ゆっくりテレビでも見てて。あっ、晴杏のオムツは俺がかえる。えーと……こうだっけ?」
リビングのお昼寝布団のうえに寝かせていた娘のオムツをかえようとしていると、晴翔が割り込んできた。手先は器用なはずなのに、モタモタしている。そのうちに晴杏が泣きはじめてしまい、
「ありがとう晴くん、でもあとは私がする」
晴翔の手をどけるようにしてオムツのテープをとめてロンパースのボタンを閉じる。すると晴翔は唇をへの字に曲げて、いまにも泣き出しそうな表情になった。
「ごめん、俺……ぜんぜん役に立たないね」
「そっ、そんなことないよ! ごはん作ってくれたじゃない」
「でもマズかった」
なんだ、自覚はあったのか。杏樹は目を泳がせて、フォローの言葉をさがす。
「それは……まあ、仕方ないよ。作り慣れてないんだし」
「杏ちゃんは……俺のこと、要らない?」
杏樹は娘を抱っこしながら「え」と短く言葉を発した。急になにを言い出すんだろう。
「だって、ぜんぜんかまってくれないし。……エッチもしてくれないし」
ははあ、そういうことか。杏樹はふうっと大きく息を吐き、
「そんなことない。晴くんは私にとってすごく大切な存在だよ。晴くんなしでは生きていけない。でも、晴杏も同じくらい大切」
「うん……」
晴翔は杏樹の額にコツンと肌を重ねながらあいづちを打った。眉尻をさげて目を伏せている。
「……ねえ、したい」
細長い指が杏樹の唇をたどる。晴翔の指は冷たかった。
「……今夜、ね」
杏樹は静かに返事をして、彼の指を唇でそっとはさんだ。